「御生れ」等について

nifty:FBUNGAKU/MES/12/06028より



みなさま、こんにちは。(^_^)/

いきなり何ですが、いや〜、まいりました。(v_v;)
この部分の【読み】は、私にとって これまでにない難産でした。ふ〜。

とりあえず、ひとつずつ見ていきます。

●かくて六条院の御いそぎは、二十余日のほどなりけり。

「二十余日」を妄想モード訳のほうで「四月の二十三日」と特定したことに
ついては、私なりの根拠(ただし、妄想にもとづいている (^^ゞ)があります
が、この「二十三日の謎」については もっと時間のある時に ゆっくりと
まとめてみたいと思いますので、今はカットしておきます。

●対の上、御阿礼に詣でたまふとて、

まずひとつめの関門です。「御阿礼」とは何を指して言っているのでしょう
か?

私が引用した 小学館の「完訳 日本の古典」では「御阿礼」と表記され、
「賀茂上社の、祭神別雷の神の降臨を迎える祭。四月の中の申の日。「み
あれ」は降臨の意。」と注がありました。しかし、それは本当でしょうか?

まずは、「みあれ」にあてる漢字について。

賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)のパンフレットには、「御蔭祭」の説明と
して、

 明治初年までは、御生(みあれ)神事と称され、御蔭の地で行われるところ
 から御蔭神事、あるいは御蔭祭と呼ばれるようになった。

と書いてあります。

小山利彦氏は、『源氏物語 宮廷行事の展開』桜楓社の中で、この場面に
おける「みあれ詣で」が賀茂下社の祭祀であることを説かれており、今回の
【読み】で、私が御生神事に関して 中将の君に語ってもらったことのほとん
どは、小山氏の上記のご本 および 『源氏物語にみる賀茂神の聖婚「あふ
ひ」考(上)』王朝文学史稿 第二十一号 所収 を 参考にさせてもらっており
ます。
下鴨社の方からお聞きした話では、小山先生はすでに10年以上、御蔭祭
の追っかけ(笑)をされておられるらしく、上記の桜楓社の本も半端じゃなく
詳しいです。専門書の割には、3800円と安く、入手しやすいお値段ですの
で、ご興味のある方はぜひご覧下さい。

ただ、公平を期するために、上賀茂社の方のお話も載せておきますと、か
つては(山での秘儀だけでなく)社頭の儀もあったらしいことが、西行法師
の残している歌などから推量され、紫の上もそれを詣でに来たんだろう と
いうことでした。やっぱり、「紫の上が来たのは自分のところだ!」と どちら
も主張しておられるようです。(^◇^;)
ただし、上賀茂社の場合、それが何という歌なのか、あるいは資料の出所
はどこ? ということなどについて……少なくともその場にいらした方々は…
…ご存じなかったようで、教えていただけませんでした。(注1)

次に、小学館の注

|>四月の中の申の日。

これは明らかに間違いだと思われます。小学館の注をそのまま引かれたの
か、他にも 御生神事の日を「中の申の日」としている本に 私も何冊か出会
い、そのたびに頭が混乱したのですが、御生神事の日は祭の3日前、つまり
「中の午の日」に行われます。
(上社,下社の両方に「平安時代の御生神事の日」について電話で確認し
ましたので、これは間違いないです。)

えっと、これをわかりやすく示しますと、


と並んでいるうち

★ 午……御生れ神事

○ 未……斎王の御禊

☆ 酉……祭り 勅使一行は当日の夕方に上社を出て、夜、宮中に戻る

● 戌……還立の儀 斎王が上社の神館を出て、斎院に帰る


という日程になっていたわけですね。(注2)

次に行きます。

●例の御方々いざなひきこえたまへど、

ここの主語は 源氏 or 紫の上のどちらなんでしょう?(゚〜゚)??

これまた 私の見る限りでは「紫の上」としている本が多かったのですが、
明石の御方との対面もまだ済ましていないこの段階で、紫の上が声をかける
とは思えず、源氏としてみました。

●なかなかさしもひきつづきて、心やましきを思して、

「心やまし」の訳としては「おもしろくない」とするものが圧倒的でした。
私もいくつかの古語辞典にあたりましたが、やはり基本はコレなんです。
でも、あの控え目な明石の御方や花散里が「紫の上のお供のようにあとをつ
いていくのはおもしろくない」などという態度を 人に見せたりするでしょうか?
いくら語り手の女房の推量にしろ、これではちょっと これまで理想的な女君
たちとして描かれてきた六條院の女君としては失格であるように思われまし
た。

そこで出会ったのが 先ほども出てきた 小山氏の『源氏物語 宮廷行事の
展開』です。以下に少々引用します。

  他人の幸せを妬むとか、一夫多妻制下における葛藤を描いているにすぎな
  いのか。この世に現出した極楽浄土にまがう六條院に集う女君たちはこん
  な狭量な人格であったのか。野分見舞に訪れた夕霧の目を奪った女君た
  ちのみごとさといい、薫物合せで披露したたしなみをはじめとする心豊かさ
  からみてそんな低次元の品格の持主とは思われまい。

いや〜、これを見た時には「我が意を得たり!」と喜んだのですが、じゃあ具
体的に「心やまし」をどう訳すのか ってことになりますと、小山先生ってば、
何にも書いてくれていないんですよ。(^◇^;)

しかたがないので、再び他の古語辞典にもあたってみたところ、旺文社のに
「相手に対してひけ目がある」という訳があったんです! (^_^)V


さ〜て、次のが最大の難関でした。

●祭の日の暁に詣でたまひて、帰さには、物御覧ずべき御桟敷におはします。

この一行! この一行のためにどれだけ苦しめられたことか! この一週間と
いうもの、毎日3時間くらいしか眠れずにいるのも、すべてはこの一行のせい
です! 私の睡眠時間を返せ〜! (T^T)q

って、それはさておき、まずは「祭の日の暁に詣でたまひて」です。

いったい、祭の日っていつのことなんでしょう?!

そんなの常識的に考えたら「葵祭(賀茂祭)」の当日に決まっているやんか!
と 初めは思っていたのですが、だが、しかし、ちょっと待てよ〜!

紫の上って「みあれ」に詣でようとしていたんでしたよね?(゚〜゚)??

え〜っと、ここで、先ほどのスケジュール表をもう一度。


★ 午……御生れ神事

○ 未……斎王の御禊

☆ 酉……祭り 勅使一行は当日の夕方に上社を出て、夜、宮中に戻る

● 戌……還立の儀 斎王が上社の神館を出て、斎院に帰る


ということは、賀茂祭の3日前の御生れ神事に出かけて、その後、再び
賀茂祭にも出かけたっていうことなんでしょうか?(゚〜゚)??
それとも、「祭の日」っていうのは「御蔭<祭>」つまり「御生れ神事」
が行われる日のことを指すのでしょうか?(゚〜゚)??

ここのところが どうしても納得いかず、うちにある限りの本はすべて読ん
だのですが それでもわからず、結局、下鴨社にお電話して 詳しい方か
らお話をお聞きすることにいたしました。

で、その結果だけを簡単に申しますと、「御生れ神事」が「御蔭<祭>」と
呼ばれているからと言って、「御生れ神事」を指して「祭」と呼ぶことは考
えにくい。ただし、賀茂祭の当日も含めた一連の行事を総称して「みあれ」
と呼ぶことはある……というお話だったんです。

あちらの方からも「藤裏葉巻を読んだ時には、何の抵抗もなくサラッと読
んでしまって、今までそんなこと考えたこともなかったです」と言われてし
まいましたが、この祭がいつのことを指すのか、小山先生にだけは ぜひ
とも書いておいていただきたかったです!!

というわけで、紫の上が詣でたのは「賀茂祭の当日に下鴨社へ」であっ
た……というのが、現時点において私がやむなく出した答えです。でも、
正直に言って、納得しているわけではありません。タイムリミットゆえ、
いったんはこれで提出するしかないか……というところです。この課題に
ついては、今後もっと時間をかけて調べていきたいと思っています。

次に、「帰さには、物御覧ずべき御桟敷におはします」

これがまた、なかなか。(^◇^;)

「帰さ」には、本来「帰る途中,帰りしな」という意味がありまして、ここも 
素直に読めば、賀茂祭の当日に下鴨社へ行ったその帰りしなに、見物す
るための桟敷に入った ということになります。

しかし、この時代、そしてこの情況で「かへさ」と言えば やはり「まつりの
かへさ(=還立の儀)」のことを指すのではないでしょうか?

清少納言も「鳥は」の段の中で、「祭のかへさ見るとて、雲林院、知足院
などの前に車をたてたれば、杜鵑もしのばぬにやあらん鳴くに、いとよう
まねび似せて、木高き木どもの中に、諸聲に鳴きたるこそさすがにをかし
けれ。」と、雲林院,知足院などの前も 祭のかへさを見物するためのおす
すめスポットであったこと、そして自らそこに出掛けていたことを記してい
ますし、道長も『御堂関白記』で長和五年の四月二十五日(つまり、中の
戌の日=還立の儀が行われる日)の中で「大(太)皇大(太)后宮大夫と同
車し見物す。(中略)女方見物す。(後略)」と記しており、道長自身、当時
太皇太后宮大夫であった公任と同車して見物し、また、女方(つまり、妻
の倫子)も(おそらくこちらは桟敷で)見物したことがうかがえます。

以上の例からも、「まつりのかへさ(=還立の儀)」という 葵祭のラストを
飾るイベントが いかに見物するに値する盛大な行事であったかというこ
とを推量することができます。

そもそも、一般の人々が見物して楽しい行列には、勅使一行の行列と斎
王一行のそれがありました。そして、これらの行列が一般の人々の目に
も触れる機会は、行きと帰りの2回あるわけですが、ここでは「帰り」に焦
点をあてて考えてみたいと思います。

まず、勅使一行ですが、こちらは、賀茂祭の当日の夕方になってから上
賀茂社を出、宮中に戻るのは すっかり暗くなった時刻なのだそうです。

それゆえ、これを あの思い出の一条大路(つまり、到着地点である御所
のすぐそば)で見物するというのは、ちょっと苦しいのでは……と、私は
判断しました。

となると、残りは斎王一行です。こちらは、(上賀茂社の方のお話では)
賀茂祭の当日に帰られたこともあったそうですが(ちなみに、下鴨社の
方のお話では、「当日帰るのは 時間的に無理があるでしょう」とのこと
でした)、祭の翌日に帰られるのが基本であったようです。

というわけで、ここの「帰さ」については、祭りの翌日の還立の儀と捉え、
紫の上には日を改めて再び出かけてもらうことにしましたが、やはりここ
で出した結論にも、十分納得しているわけではありません。ここも今後の
課題にしたいと思っています。(注3)


●御前、所しめたるほどいかめしう、かれはそれと、遠目よりおどろおどろ
しき御勢ひなり。

ここは、疑問点ではなく、感想です。

これまで、人目につくところに出てこなかった紫の上ですが、ここでは
明石の姫君の入内を前にして、彼女に箔を付けるべく、その母としての
威厳を誇示しているかのようです。


以上、長々と失礼しました。m(^ ^;)m

つづきは、たぶん11日にUPできると思います。
オータムさん、大猫さん、たっちんさん、榊原 俊子さん、みなさま、もう
少し時間を下さいませ! (^人^)

ではでは。

(注1)

新間一美氏の『源氏物語葵巻の「あふひ」について―賀茂の川波―』
甲南大学紀要文学編103 日本語日本文学特集 所収 によれば、

 思ふことみあれのしめに引く鈴のかなはずはよも鳴らじとぞ思ふ
                                 (山家集・1022)
の歌をさすようです。

賀茂の上社には、神聖な賢木に標縄と鈴がつけられた「みあれ木」が
立てられ、標縄を引いて鈴が鳴れば願い事が叶うとされたそうです。

(注2)

新間一美氏の『源氏物語葵巻の「あふひ」について―賀茂の川波―』
甲南大学紀要文学編103 日本語日本文学特集 所収 によれば

新間氏は、賀茂祭を広義と狭義の2つに分けられ、広義の賀茂祭を
4月中頃の一連の祭とされ、また、狭義の賀茂祭を 朝廷が勅使・斎王
等を上下賀茂社へ派遣する当日一日だけとされた上で、これを勅祭賀
茂祭と呼んでおられます。

そして、平安初期に成立した『内裏式』中「賀茂祭日警固式」には、申の
日と酉の日の両日に勅祭賀茂祭があった旨が記されているが、『延喜
式』が成立するまでには、酉の日に固定されたことから、申酉の両日は
山城国司が関わる神社側の祭日としておられます。

また、「みあれ日」の名の由来については、栗田寛氏の説を支持された
土橋寛氏が 「みあれ日」の名の由来を「みあれ木」にあるとされたこと、
さらには、『百練抄』,『扶桑略記』,『栄華物語』の記述等からも 申の日
の行事とされたことを 指摘しておられます。

大臣等の賀茂参詣が次第に申の日に固定されてきたことも、「みあれ日」
を申の日とした根拠になっているようです。

とにかく、このあたりのことに関しては、時代による変遷があって、相当
ややこしい(つまり、申の日説もまんざら根拠がないわけでもない)という
ことが よくわかりました。

ご興味をお持ちの方は、新間一美氏の上記ご論文に詳しく書かれていま
すので、そちらをご覧下さい。

(注3)

新間一美氏の『源氏物語葵巻の「あふひ」について―賀茂の川波―』
甲南大学紀要文学編103 日本語日本文学特集 所収 からの引用です。

  紫上は「祭の日」の暁に参詣して、そのまま勅使と斎王の行粧を見物
 している。「祭の日」は、明らかにVの(笑芭注:=酉の)勅祭の日であ
 る。もし、申の日に参詣しているならば、二度参詣していることになり、
 不自然と言わざるを得ない。牛車二十台を連ねているのであるから、二
 度参詣するとか、或いは参詣後に宿泊するとかを想定するのは疑問で
 ある。
  紫上はUの申の日ではなく、Vの酉の日の早朝に下社上社の順で
 賀茂社を拝したと考えられる。(引用終了)

新間一美氏のこのお説は非常に説得力があり、なるほど〜!と思いま
した。これなら、私がひっかかっていた点も ほぼすべて解決できます。

この場面での「みあれ」は、賀茂社の四月の祭の代名詞的な用い方を
されているだろう というお説も、下社の方からお聞きした話と符合しま
すし、酉の日は勅祭賀茂祭の日で、勅使や斎王が参詣する日なのだか
ら、紫上が牛車を二十台も引きつれて参詣することは難しく、それが「祭
の日の暁にまうでたまひて」とある 早朝参詣の理由だ というお説も、な
るほど〜! という感じでした。

新間一美氏のご論文『源氏物語葵巻の「あふひ」について―賀茂の川
波―』を教えて下さった方、本当にありがとうございました。(^人^)

【注】
「二十三日の謎」については光源氏のお誕生日?!にまとめました。


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