弓場殿
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね! |
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参考文献: 『年中行事絵巻』 |
弓場殿(ゆばどの) |
校書殿の東廂の北には、天皇が賭射(のりゆみ)をご観戦になるため に設けられた「弓場殿(ゆばどの=「射場殿(いばどの)」とも)」があり ました。 賭射というのは、射礼(じゃらい)の翌日である正月18日に行われる 宮廷行事のことで、「賭弓」ともいいます。どちらにも「賭」の字が使 われていることからもわかりますように、これは賞を賭(か)けて行わ れる行事なのでした。 射礼は正月17日に建礼門前において行われ、天皇はそれを豊楽院 でご観覧なさいました。そして、翌18日に校書殿の東で行われた賭 射に関しては、ここ弓場殿でご観戦になった というわけです。 射礼が天智9年(670年)からの恒例行事であったのに対し、この賭 射は淳和天皇の天長元年(824年)を文献上の初見とします。 当日、天皇は弓場殿に出御なさり、射手である近衛10人,兵衛7人 は、安福殿の前庭の中央あたりに設けられた的に向かって、分かれ て射ました。具体的には、左右近衛の場合、一番ごとに左右各一人 ずつが出て十番勝負をし、勝負は一番ごとに三度射ったということ です。 この賭射の場面は「年中行事絵巻」に詳しく描かれています。まさに 「百聞は一見に如かず」という感じですから、ご興味をお持ちの方は ぜひそれをご覧下さい。(『源氏物語図典』小学館のp170にも載って います。) さて、このようにして勝負がつきますと、勝方の者は賭物を賜り、また 負方に対しては罰酒を行いました。 賭射が終わると、近衛大将は自邸において射手を饗応しますが、 これを還饗(かえりあるじ)といいます。 『源氏物語』「匂兵部卿」巻には、賭弓の還饗の準備に余念のない 六条院の様子が 次のように描かれていました。 賭弓の還饗のまうけ、六条院にていと心ことにしたまひて、親王 をもおはしまさせむの心づかひしたまへり。(中略)例の、左、あ ながちに勝ちぬ。例よりは、とくこと果てて、大将まかでたまふ。 この時、六条院の主はすでに夕霧で、彼は近衛大将を兼ねた右大 臣でした。ですから、近衛大将の自邸、つまり六条院で、親王さま方 もご招待しようとのお心づもりもあり、賭弓の還饗の準備を特別念 入りになさっていた というわけです。 また、これを読みますと、左方が一方的に勝つ というのが、賭弓に おけるお決まりのパターンだったようですね。 『源氏物語』の中では、この他、賭弓について次のような記述があり ますので、ご参考になさって下さい。 ●「若菜下」巻 殿上の賭弓、如月にとありしを過ぎて、三月はた御忌月なれば、 口惜しくと人びと思ふに、この院に、かかるまとゐあるべしと聞 き伝へて、例の集ひたまふ。左右の大将、さる御仲らひにて参 りたまへば、次将たちなど挑みかはして、小弓とのたまひしか ど、歩弓のすぐれたる上手どもありければ、召し出でて射させ たまふ。 ●「竹河」巻 大饗の垣下の君達など、あまた集ひたまふ。兵部卿宮、左の 大殿の賭弓の還立、相撲の饗応などには、おはしまししを思 ひて、今日の光と請じたてまつりたまひけれど、おはしまさず。 ●「浮舟」巻 賭弓、内宴など過ぐして、心のどかなるに、司召など言ひて、 人の心尽くすめる方は、何とも思さねば、宇治へ忍びておは しまさむことをのみ思しめぐらす。 なお、小弓については、こちらもご覧下さいね。 |