作物所
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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作物所(つくもどころ)は、平安宮内裏の南西の隅に置かれ、宮中の 調度品を調進するところでした。 以下、玉井 力氏が作物所について平凡社CD−ROM版世界大百 科事典に書かれたものをまとめてみます。 ここは、内匠寮(たくみりょう)の出先機関的な役割を果たしたもの と思われ、蔵人所の所管でした。 作物所が初めて史料に出てくるのは『西宮記』承和7年(840年)の記 事で、潅仏の際に蔵人の指示で雑具を作ったことが記されています。 この他、延喜4年(904年)に、東宮のために御帳,台盤,銀器を、また 大嘗会用には台盤,銀器を作ったことや、天徳3年(959年)に卯杖 (うづえ)を作製したこと、長和4年(1015年)に神宝を作ったことなどが 記録に残されています。 作物所の職員には、別当,頭,預(あずかり)が置かれ、この他、冶師 がいたことも知られています。ちなみに、別当には蔵人頭が任命され る場合が多かったそうです。以上、玉井 力氏のお説でした。 作物所の別当といえば、『枕草子』第103段「雨のうちはへ降る頃」に 作物所の別当する頃、誰がもとにやりたりけるにかあらむ、も のの絵やうやるとて、「これがやうに仕うまつるべし。」と書きた る真名のやう、文字の、世に知らずあやしきを見つけて、その かたはらに、「これがままに仕うまつらば、ことやうにこそあべ けれ。」とて、殿上にやりたれば、人々とりて見て、いみじう笑 ひけるに、おほきに腹立ちてこそにくみしか。 との記述もありましたね。 さて、『源氏物語』の中でも、作物所の語は2回出てきます。 それでは、原文を見ていきましょう。 まずは「若菜 下」巻です。 作物所の人召して、忍びて、尼の御具どものさるべきはじめ のたまはす。 二条の尚侍の君(朧月夜)が出家したことを知った源氏は、紫の上や 花散花に尼用の衣装を縫うように頼みました。そして、その一方で、 宮中の作物所の人をも召して、尼のお道具類を作るよう、内々にご 下命なさっていたのです。 残る一つは「宿木」巻です。 女御のしおきたまへることをばさるものにて、作物所、さるべき 受領どもなど、とりどりに仕うまつることども、いと限りなしや。 女二の宮の御裳着のご準備の様子です。 女二の宮の母女御はすでに亡くなっており、彼女には御後見がいま せん。そのため、万事、帝のお心一つで御準備が進められているの で、かえって立派に見えるのでした。母女御がご生前に準備してお かれたことはいうまでもなく、作物所や、しかるべき受領たちが、そ れぞれにお仕え申し上げて、御裳着のご準備は際限がないほど立 派になされました。 (この後、女二の宮は薫の三条宮邸に降嫁しました。) この他、『竹取物語』でも、蓬莱の玉の枝を持ってくるように言われ た車持皇子が、内匠寮の工匠に命じて、みごとな蓬莱の玉の枝の 偽物を作らせたことは、みなさまもよくご存じでしょう。 この「内匠寮の工匠、漢部内麻呂」に、「作物所の司の工匠漢部 内麿」という字をあてる方もおられるようです。(もっとも、これは、 平安宮内裏の作物所のことではありませんが・・・。) いずれにしろ、作物所というのは、宮中にあって、帝や皇子や院の ご命令により、調度品を調進する役割を担っていたようですね。 |