登華殿



この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。

石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね!


登華殿(とうかでん)は弘徽殿(こきでん)の北にあって「登花殿」とも記
されました。


参考文献:『大内裏図考証』巻十七


身舎(もや)は南北七間,東西二間で、東西に庇があったとされる他は、
間取りなど全く不明です。

正直な話、登華殿の間取りがわかっていないというのは、私にとって
非常に意外でしたし、大変残念でもありました。

と言いますのも、登華殿を居所とした中宮には、藤原定子がいるから
なんです。もちろん、藤原道隆の娘で、一条天皇の中宮となった あの
定子さまです。それゆえ、ここ登華殿は、『枕草子』の中でも、いろんな
エピソードの舞台として、繰り返し登場してきています。

まずは、『枕草子』108段をご覧下さい。

淑景舎、春宮にまゐり給ふほどの事など、いかがめでたからぬ事
なし。(中略)二月十余日、宮の御方に渡り給ふべき御消息あれば、
常よりも御しつらひ心ことに磨きつくろひ、女房など皆用意したり。
(中略)登華殿の東の二間に御しつらひはしたり。(中略)宮は御曹
司の南に、四尺の屏風、西東に隔てて、北向に立てて、御畳御褥
うち置きて、御火桶ばかりまゐりたり。御屏風の南、御帳の前に、
女房いと多くさぶらふ。こなたにて御髮などまゐるほど、「淑景舎
は見奉りしや」と 問はせ給へば、「まだいかでか。積善寺供養の
日、御うしろをわづかに」と聞ゆれば、「その柱と屏風とのもとに
よりて、わがうしろより見よ。いとうつくしき君ぞ」との給はすれば、
うれしくゆかしさまさりて、いつしかと思ふ。(中略)さてゐざり出で
させ給ひぬれば、やがて御屏風に添ひつきてのぞくを、「あしかン
めり、うしろめたきわざ」と聞えごつ人々もいとをかし。御障子の
広うあきたれば、いとよく見ゆ。うへは白き御衣ども、紅のはりた
る二つばかり、女房の裳なめり。引きかけておくによりて、東面
におはすれば、ただ御衣などぞ見ゆる。淑景舎は北にすこしより
て南向におはす。(中略)殿は(中略)廂の柱に後をあてて、こなた
ざまに向きておはします。(中略)御手水まゐる。かの御かたは宣
耀殿、貞觀殿を通りて、童二人、下仕四人して持てまゐるめり。
唐廂のこなたの廊にぞ、女房六人ばかりさぶらふ。狹しとて、か
たへは御おくりして皆帰りにけり。(中略)御膳のをりになりて、(中
略)隔てたりつる屏風も押しあけつれば、垣間見の人、かくれ蓑
とられたる心地して、あかずわびしければ、御簾と几帳との中に
て、柱のもとよりぞ見奉る。(中略)殿の、端のかたより御覽じ出し
て「誰そや、霞の間よりみゆるは」と咎めさせ給ふに、「少納言が、
物ゆかしがりて侍るならん」と申させ給へば、「あなはづかし。か
れはふるき得意を、いとにくげなる女ども持ちたりともこそ見侍れ」
などのたまふ御けしき、いとしたり顏なり。(中略)しばしありて、式
部の丞なにがしとかや、御使にまゐりたれば、御膳やどりの北に
よりたる間に、褥さし出でて居ゑたり。御かへりは今日は疾く出さ
せ給ひつ。まだ褥も取り入れぬほどに、東宮の御使に、ちかより
の少將まゐりたり。御文とり入れて、渡殿は細き縁なれば、こな
たの縁に褥さし出でたり。(中略)未の時ばかりに、筵道まゐると
いふ程もなく、うちそよめき入らせ給へば、宮もこなたに寄らせ
給ひぬ。やがて御帳に入らせ給ひぬれば、女房南おもてにそよ
めき出でぬめり。廊に殿上人いと多かり。殿の御前に宮司召して
菓子肴めさす。(中略)日の入るほどに起きさせ給ひて、山井の大
納言召し入れて、御うちぎまゐらせ給ひて、かへらせ給ふ。(中略)
「さらば遠きをさきに」とて、まづ淑景舎わたり給ひて、殿などかへ
らせ給ひてぞ、のぼらせ給ふ。道のほども、殿の御猿楽ことにい
みじく笑ひて、ほとほとうちはしよりも落ちぬべし。


東宮居貞(いやさだ)親王(=後の三条天皇)の女御で淑景舎を賜った
定子の妹の原子が、登華殿で定子と対面した時の様子です。

登華殿では、東の庇の二間に原子たちをお迎えする用意をし、姉妹
の父である殿(藤原道隆)や母の高階貴子も二人揃って参内してきま
した。また、その後しばらくして、伊周大納言と隆家三位中将も伊周
の子松君を連れてやって来ており、中関白家が絶頂にあったころの
明るく華やかな様子が伝わってきます。

実は私、ここを読んでみて、何とか自分なりに登華殿の間取りを復元
してみよう! と思い、弘徽殿などを参考にしつつ、いろいろ考えてみ
たんです。
まず、「大内裏図考証」の図では、南北九間,東西四間がスッポリ空
いていますので、身舎を南北七間,東西二間にすべく、東西だけでは
なく四方に庇をとりつけてみることにしました。とはいえ、弘徽殿にな
らって、西庇を細殿風に長〜くするか否かで、いきなり悩みました。

とりあえず、『枕草子』の中に「細殿」の語が使用されていたことだけは
記憶していましたので、上田英代先生のサイト古典総合研究所で『枕
草子』の中に描かれている「細殿」について検索してみたところ、7件の
用例があることがわかりました。

検索の結果を抜き出しておきますので、お時間のある方は、ご覧の上
ぜひご検討下さいませ。

1)<第四十三段>
細殿に、人あまた居て、やすからずものなどいふに、きよげなる
郎等・小舎人童など、よき包み・袋などに衣どもつつみて、指貫


2)<第七十二段>
内裏の局、細殿いみじうをかし。
上の蔀あげたれば、風いみじう吹き入りて、夏も、いみじう涼し。


3)
この四月の朔ごろ、細殿の四の口に、殿上人あまた立てり。やう
やうすべり失せなどして、ただ、頭中将・源中将・六位一人残りて、


4)<第二百二十一段>
「細殿に、便なき人なむ、暁に傘さして出でける」
と、いひ出でたるを、よくきけば、わがうへなりけり。「地下など


5) <第二百三十段>
細殿の遣戸を、いと疾う押し開けたれば、御湯殿の馬道より下
り て来る殿上人、萎えたる直衣・指貫の、いみじう綻びたれば


6)
むつかしう、「今朝まで晴れ晴れしかりつる空」ともおぼえず、
憎 くて、いみじき細殿、「めでたきところ」ともおぼえず。


7)
夜行し、細殿などに入り臥したる、いと見苦しかし。布の白袴、
几帳にうちかけ、袍の長くところせきを、わがねかけたる、


以上です。
このうち、明らかに清涼殿の細殿について書かれたものが多いことは
すぐにわかったのですが、でも、すべての「細殿」がそれに該当するか
どうかまでは、私にはわかりませんでした。(今、その前後をじっくり読
んでいる暇もないですし・・・。)

ちなみに、ここで〇〇段とあるのは、新潮日本古典集成によるもので、
私がいつも書いている〇〇段というのは、九州大学所蔵の枕草子デ
ータベース枕草子で確認させていただいているものです。

それから、みなさまにお願いなのですが、登華殿の間取りに関して書
かれたご論文をご存じの方がいらっしゃいましたら、どうか教えて下さ
いますよう、よろしくお願い申し上げます。

細殿だけでなく、「登華殿の東の二間に御しつらひはしたり」「
は御曹司の南に、四尺の屏風、西東に隔てて、北向に立てて、
御畳御褥うち置きて、御火桶ばかりまゐりたり。御屏風の南、
御帳の前に、女房いと多くさぶらふ。
」「その柱と屏風とのもと
によりて、わがうしろより見よ。
」「御障子の広うあきたれば、い
とよく見ゆ。
」「うへは・・・東面におはすれば」「淑景舎は北に
すこしよりて南向におはす。
」「殿は・・・廂の柱に後をあてて、
こなたざまに向きておはします。
」「唐廂のこなたの廊にぞ、女
房六人ばかりさぶらふ。狹しとて
」「隔てたりつる屏風も押しあ
けつれば、・・・御簾と几帳との中にて、柱のもとよりぞ見奉る。
・・・殿の、端のかたより御覽じ出して
」「式部の丞なにがしと
かや、御使にまゐりたれば、御膳やどりの北によりたる間に、
褥さし出でて居ゑたり。
」「渡殿は細き縁なれば、こなたの縁に
褥さし出でたり。
」「やがて御帳に入らせ給ひぬれば、女房南お
もてにそよめき出でぬめり。廊に殿上人いと多かり。
」などの記
述から、東庇やその近くの間取りについても、いろいろ考えてみると
おもしろそうなことって、とっても多そうな気がします。

実は、この間、京都市歴史資料館に行った時にも、閲覧室にいらした
専門家の方に、ここの件に関する疑問点などをぶつけてみたのです。
でも、発掘調査をしてみても、出てくるのは礎石くらいであって、建物
の中の柱がどういう間隔で置かれていたかなどということは、建築学
の方面の課題であり、考古の立場ではわからない、とのお話でした。
(柱が一間に一本置かれているとすれば、中宮,淑景舎,殿,上の4
人が語り合った「東の二間」って、今でいう4畳になり、その周りには
女房たちもいっぱいいたわけで、なんかとっても狭そうな気がして、
ひっかかっていたんですよねぇ。)

とまあ、そんなわけで、オフの日には、登華殿の間取りについて、熱く
語り合いたい! と思っていますので、お時間のある方は、考えてお
いて下さいね。
研究者の方には、無責任なことなど言えないでしょうが、私は素人の
強みで、私なりに考察した登華殿の間取りを、いつかここにUPしたい
と思っています。
定子さまの登華殿の復元に向けて、ぜひみなさまのお知恵をお貸し
下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。(^人^)

閑話休題。次は『枕草子』132段を見ていきましょう。

関白殿の黒戸より出でさせ給ふとて、女房の廊に隙なくさぶらふ
を、「あないみじの御許だちや翁をばいかにをこなりと笑ひ給ふら
ん」と分け出でさせ給へば、戸口に人々の、色々の袖口して御簾
を引き上げたるに、権大納言殿、御沓取りてはかせ奉らせ給ふ。
いとものものしうきよげに、よそほしげに、下襲の裾ながく、所狹
くさぶらひ給ふ。まづあなでた、大納言ばかりの人に沓をとらせ給
ふよと見ゆ。山井の大納言、そのつぎづぎさらぬ人々、くろきもの
をひきちらしたるやうに、藤壺のへいのもとより、登華殿の前まで
居並みたるに、いとほそやかにいみじうなまめかしうて、御太刀な
ど引きつくろひやすらはせ給ふに、宮の大夫殿の、清涼殿の前に
たたせ給へれば、それは居させ給ふまじきなめりと見る程に、少
し歩み出でさせ給へば、ふと居させ給ひしこそ、猶いかばかりの
昔の御行のほどならんと見奉りしこそいみじかりしか。(中略)大
夫殿の居させ給へるを、かへすがへす聞ゆれば、「例の思ふ人」
と笑はせ給ふ。ましてこの後の御ありさま、見奉らせ給はましか
ば、理とおぼしめされなまし。


関白道隆が黒戸から清涼殿を退出する時の様子です。
権大納言殿というのは伊周さま。宮の大夫殿というのは言わずと知れ
た道長のことです。また、山井の大納言というのは、伊周や定子とは
異腹の兄である 藤原道頼のことになります。中関白家と御堂関白家
この後の御ありさまを 私達読者は知っているだけに、本当にここ
を読んでいますと、何ともいえない思いがいたしますね。


さて、次は、源氏物語の場面としての登華殿を見ていきましょう。

后は、里がちにおはしまいて、参りたまふ時の御局には梅壷をし
たれば、弘徽殿には尚侍の君住みたまふ。登花殿の埋れたりつ
るに、晴れ晴れしうなりて、女房なども数知らず集ひ参りて、今め
かしう花やぎたまへど・・・。
(「賢木」巻より)

これを見て、私は「え〜っ? 登花殿って埋れたイメージの殿舎だった
の?」と、かなり驚きました。私には、定子の周辺の、あの明るく華や
かなイメージこそが、やはり登花殿にはふさわしいように思えるので
す。
これは、源氏物語の作者が、彰子側の人間であったことが原因で、
意図的にこういう記述になってしまったのでしょうか? とはいえ、登
花殿には、道長の娘の尚侍嬉子も入っていますし、作者の意図が気
になるところではあります。

みなさまも よろしければ、ご一緒に考えてみてくださいね!

今回は、中途半端なままのUPにて、失礼いたしました。


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