承香殿


この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。

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『大内裏図考証』所収の『和名抄』には「東寺所伝大内図曰、承香殿、
弘仁已後所建」と記されています。
嵯峨天皇の御代、キサキが多くなったことから 承香殿は建てられたわ
けです。

東西七間、南北二間の身舎の四方に庇をめぐらし、中央の馬道で身舎
を東西に二分しています。
                                              
参考文献:『大内裏図考証』


醍醐天皇の御代、 延喜5年には、承香殿の東庇で、紀貫之らによって
古今和歌集の撰集が行われています。また、延長2年3月には 西庇で
昌子内親王の裳着が 醍醐天皇御自ら腰結役をつとめられて行われま
した。
                                               
さて、こちら承香殿を局とすることで「承香殿の女御」と呼ばれた歴史上
の女性たちには、醍醐天皇女御 源和子(=光孝天皇皇女),村上天皇
女御 徽子女王(=重明親王娘),一条天皇女御 藤原元子(=藤原顕
光娘),後三天皇女御 藤原昭子(=藤原頼宗娘)たちがいらっしゃいま
す。

このうち、村上天皇女御 徽子女王は、六条御息所のモデルとも言われ
ている人ですので、こちらに詳しく書かせていただきました。

また、一条天皇女御 藤原元子といえば、『栄花物語』の「浦々の別れ」
に書かれた 次のようなお話が有名です。

懐妊した元子が宮中を退出しようと弘徽殿の細殿を渡った折、弘徽殿
の女御(=藤原公季娘)方の女房たちは、大勢集まって 元子の様子を
御簾越しに見守っていました。彼女たちが身を乗り出すようにして見物
していたからでしょう、御簾はたわまんばかりの状態になったのですが、
それを見た元子の女童が「こちらでは、女御さまはいっこうにご懐妊な
さいませんのに、御簾だけは孕んでいるのですね」との、痛烈な憎まれ
口をきいたのです。

六条御息所の牛車に狼藉をはたらいた葵の上の従者ではありません
が、お仕えしている人の言動を見ることで、その主人の心のありようま
で推しはかることができるというのなら、この時の元子の驕りのほども
うかがえるというものでしょう。

しかし、驕れる元子 久しからず・・・

元子のお腹は懐妊のために脹らんでいたのではなく、彼女はお腹に
水のたまる病気にかかっていただけだったのです。こうして、元子の
出産は 水が大量に流れ出るだけで終わってしまい、お腹がペシャ
ンコになると同時に、期待されていた皇子の誕生も 夢と消えてしま
ったのでした。

この元子、一条天皇が崩御された翌年には、源頼定と密通事件を起
こし、激怒した父藤原顕光によって 黒髪をおろされたお話でも有名
です。

次は、源氏物語における「承香殿」について見ていきましょう。

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