宣耀殿
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね! |
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| 宣耀殿(せんようでん)は内裏の北辺にあって、西の貞観殿とは反橋で, 南の麗景殿とは切馬道で、それぞれつながっています。 |
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参考文献:『大内裏図考証』巻十七 |
身舎は南北七間,東西二間で、四方に庇をめぐらしていたようですが、 間取りについては不明です。 さて、宣耀殿を賜った歴史上の人物として、最も有名な女性は、やはり 何と言っても藤原芳子でしょう。芳子は左大臣藤原師尹(もろただ)の娘 で、村上天皇の女御でした。 芳子には非常に有名なエピソードがいくつも残っていますが、まずは、 芳子の髪についてのお話から・・・。 『大鏡』には、芳子が参内するときの様子が、次のように書かれてい ます。 御車に奉りたまひければ、わが身は乗りたまひけれど、御髪の すそは母屋の柱のもとにぞおはしける 当時の女性のヘアースタイルは、裾に引く形の垂髪でしたが、とはい え、芳子ほど髪の長い女性は そうそういるものではありません。 彼女の豊かな黒髪は、母屋の柱→廂→簀子→車と、これだけの距離 を流れるように横たわっていたというのですから、少々の誇張はある にせよ、半端じゃない長さです! 長い黒髪が美人の条件であった当 時、芳子は最高の美人だったと言えるでしょう。 芳子の美しさについては、同じく『大鏡』の中で、次のようにも書かれ ています。 藤壺・弘徽殿とのうへの御局はほどもなく近きに、藤壺のかたに は小一條女御、弘徽殿にはこの后の昇りておはしましあへるを、 いとやすからず、えやしづめがたくおはしましけん、中隔ての壁に 穴をあけて、のぞかせたまひけるに、女御の御かたちいとうつくし くめでたくおはしましければ、「むべ、ときめくにこそありけれ」と御 覧ずるに、いとど心やましくならせ給ひて、穴より通るばかりのか はらけのわれしてうたせたまへりければ、みかどのおはしますほ どにて、こればかりにはえたへさせたまはず、むづかりおはしまし て・・・ 文中、小一條女御というのが芳子で、后は安子、みかどはもちろん 村上天皇です。清涼殿の夜御殿と二間の北には、皇后や女御などが 伺候する部屋として、東に弘徽殿の上御局、西に藤壷の上御局が並 んでいますが、このときは、どういうタイミングだったのでしょうか、弘徽 殿の上御局に安子、藤壷の上御局には芳子と、2人が同時に伺候し てしまったのです。 芳子のことが気になってしかたのない安子が、部屋を隔てている壁に 穴をあけて、藤壷の上御局の方を覗いてみますと、芳子の容姿は 敵 ながら素晴らしく、「なるほど、あれなら、ときめいているのも尤もだ」と 思えます。とは言え、いえ、それだからこそ でしょうか、安子はたいそ う癪に障り、その穴から芳子目がけて かはらけを投げつけたのでし た。ところが、ちょうどそこに村上天皇がいらっしゃったものですから、 さあ大変! さすがの帝も、これには ご不快の色をお隠しにならなか った・・・というお話です。 さて、芳子は美しいだけでなく、非常に深い教養を身につけた女性でも ありました。以下に、『枕草子』20段より引用します 村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一條の左の大臣 殿の御女におはしましけると、誰かは知り聞えざらん。まだ姫君 にときこえける時、父大臣の教へ聞えさせ給ひけることは、一つ には御手を習ひ給へ、次には琴の御琴を、いかで人にひきまさら んとおぼせ、さては、古今の歌二十卷を、皆うかべさせ給はんを、 御学問にはさせたまへとなん聞えさせ給ひけると、きこしめしお かせ給ひて、 ここは、当時の女性の教育について書かれた非常に有名な箇所です から、みなさまもすでによくご存じのことでしょう。 娘を后がねに……と考えている父が、娘にさせた学問は、一にお習 字,二にお琴,そして、最後が古今集の暗誦というものでした。 そして、そのことをお聞きになった村上天皇は、ある物忌の日に、芳子 が本当に古今集の歌をすべて暗誦しているか、チェックしてやろうと思 われ、抜き打ちテストをなさったのです。 御物忌なりける日、古今をかくして、持てわたらせ給ひて、例なら ず御几帳をひきたてさせ給ひければ、女御、あやしとおぼしける に、御草紙をひろげさせたまひて、その年その月、何のをり、その 人の詠みたる歌はいかにと、問ひきこえさせたまふに、かうなりと 心得させたまふもをかしきものの、ひがおぼえもし、わすれたるな どもあらば、いみじかるべき事と、わりなく思し亂れぬべし。そのか たおぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石して數を 置かせ給はんとて、聞えさせ給ひけんほど、いかにめでたくをかし かりけん。御前に侍ひけん人さへこそ羨しけれ。せめて申させ給 ひければ、賢しうやがて末までなどにはあらねど、すべてつゆ違 ふ事なかりけり。いかでなほ少しおぼめかしく、僻事見つけてを 止まんと、ねたきまで思しける。十卷にもなりぬ。更に不用なりけ りとて、御草紙に夾算して、みとのごもりぬるもいとめでたしかし。 いと久しうありて起きさせ給へるに、なほこの事左右なくて止ま ん、いとわろかるべしとて、下の十卷を、明日にもならば他をもぞ 見給ひ合するとて、今宵定めんと、おほとなぶら近くまゐりて、夜 更くるまでなんよませ給ひける。されど終に負け聞えさせ給はず なりにけり。 こうして、チェック作業はどんどん進んでいきましたが、芳子は一首も 間違えません。帝は感心されつつも、ここまで完璧だと悔しくもあり、 なんとか間違いを見つけてから止めよう! と思われるのですが、一 つもミスのないまま、ついに十巻分のチェックが終了してしまいました。 「これ以上はやっても同じこと」と、いったんは横になられた帝でした が、やっぱり今日のうちにハッキリと決着をつけてしまおう! と思い なおされ、残りの十巻のチェックも夜遅くまでかかってなさいました。 それでも、芳子はついに一首も間違えることはなかった……というお 話です。 私はこのエピソードそのものも、もちろん好きですが、このお話をされ たのが、他ならぬ定子さまご自身でいらした……ということのほうが、 より素敵に思われてなりません。もしかすると、定子もまた、母の貴子 からこの話を聞かされ、そういう教育を受けて育ったのかもしれませ んね。 この芳子の兄にあたる大納言藤原済時の娘で、三条天皇の皇后に なられた藤原 は、 昔おぼし出でて、やがて宣耀殿に住ませ給ふ。 と、東宮居貞親王に入内した て、宣耀殿に住んだことが書かれています。 |