麗景殿



この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。

石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね!

麗景殿(れいけいでん)は宣耀殿の南,綾綺殿(りょうきでん)の北にあり、
常寧殿(じょうねいでん)を中心にして弘徽殿(こきでん)と左右対称の位置
に建てられていました。


参考文献:『大内裏図考証』巻十七


身舎(もや)は南北七間,東西二間で、四方に庇(ひさし)があったとされる
他は、間取りなど全く不明です。


平安宮内裏の後宮は七殿五舎から成りますが、内裏創建時から存在し
た七殿のほうが五舎よりも格上であると、基本的にはみなされています。

その中で、最も格上とされたのが、弘徽殿で、その次にあたるのが、ここ
麗景殿 または 承香殿という順であったとされています。

●麗景殿に住んだ歴史上の人物

〇冷泉天皇

村上天皇が清涼殿で亡くなられたため、清涼殿の板敷を改替する間の
一時期、ここを在所とされました。

〇荘子女王

村上天皇の女御。中務卿代明親王の娘。
956年2月29日に「麗景殿女御歌合」を主催しています。

〇藤原綏子

藤原兼家の娘。13才で三条天皇の東宮時代に入内して、尚侍となり、
23才の時には、弾正大弼源頼定と密通事件を起こしています。


●源氏物語で麗景殿を賜っていた人物

〇朱雀帝の女御。弘徽殿大后の姪。

大宮の御兄の藤大納言の子の、頭の弁といふが、世にあひ、はな
やかなる若人にて、思ふことなきなるべし、妹の麗景殿の御方に行
くに、大将の御前駆を忍びやかに追へば、しばし立ちとまりて、「白
虹日を貫けり。太子畏ぢたり」と、いとゆるるかにうち誦じたるを、
大将、いとまばゆしと聞きたまへど、咎むべきことかは。(「賢木」)


弘徽殿大后の甥で頭の弁が、恐らくは校書殿の蔵人所から清涼殿の
東を通って、妹である麗景殿の女御のもとに行こうとした時に、源氏の
前駆と出会い、源氏が謀反の意志を持っているかのような皮肉を言っ
た場面です。

〇桐壺帝の女御。花散里の姉。

麗景殿と聞こえしは、宮たちもおはせず、院隠れさせたまひて後、
いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿の御心にもて隠
されて、過ぐしたまふなるべし。
御おとうとの三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしな
ごりの、例の御心なれば、さすがに忘れも果てたまはず・・・。(「花
散里」)


桐壺帝の崩御後、子供のいない麗景殿の女御は、源氏の庇護下で暮
していました。源氏にとって花散里は、生涯にわたり非常に大切な女君
の一人となっていますが、その花散里は、麗景殿の女御の妹の三の君
にあたり、花散里とは、宮中辺りで逢ったのが そもそものなれそめであ
ったということです。

〇今上帝の女御。今上帝が東宮の時、最初に入内。

春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける。いと大人しく
おはしませば、人の女ども競ひ参らすべきことを、心ざし思すなれ
ど、この殿の思しきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや
交じらはむと、左の大臣なども、思しとどまるなるを聞こしめして、
「いとたいだいしきことなり。宮仕への筋は、あまたあるなかに、
すこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ。そこらの警策の姫君た
ち、引き籠められなば、世に映えあらじ」とのたまひて、御参り延
びぬ。次々にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々に聞きたま
ひて、左大臣殿の三の君参りたまひぬ。麗景殿と聞こゆ。(「梅枝」)


春宮の御元服も行われ、だれしも自分の娘を入内させたいと思います。
けれども、権勢のある明石の姫君の入内が近い中で、娘を宮仕えをさ
せても・・・と、左大臣なども思い留まっていました。それを伝え聞いた
源氏は、実に太っ腹な態度で、「宮仕えというのは、女御更衣あまたい
る中で、僅かな差を競いあうのが本来あるべき姿でしょう。みなさま、ご
遠慮なく!」と言い、明石の姫君の入内を延期させたのです。
そして、それを聞いた左大臣は三の君を東宮に入内させ、彼女は東宮
のおられる梨壺のすぐ西隣にあたる麗景殿に、御局を与えられた と
いうわけなのでした。

〇春宮の女御。紅梅大納言の長女。

若君、内裏へ参らむと、宿直姿にて参りたまへる、わざとうるはし
きみづらよりも、いとをかしく見えて、いみじううつくしと思したり。
麗景殿に、御ことづけ聞こえたまふ。(「紅梅」)


紅梅大納言と真木柱との間にできた若君が、たいそう可愛いらしい殿
上童の宿直姿で、内裏へ参上しようとして紅梅大納言のところにやっ
てきました。そこで、紅梅大納言は、長女である麗景殿の女御に、おこ
とづけを頼んだという場面です。
                                               


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