2002年11月4日源氏の部屋オフ

平安宮内裏を歩く

レポート  by 明さん

 写真提供 by なぎさん



2002年11月4日、「源氏の部屋」の2周年を記念して、サイトの公式初オフとして
「平安宮内裏を歩く」オフが開催されました。

現在の住宅地図と平安宮内裏の建物配置図を重ね合わせた地図を片手に、
1000年後の内裏を歩いて回るというわくわくする企画♪

曖昧な記憶ではありますが、オフ当日の様子をご報告させていただきます。

参加なさった皆様には記憶を掘り返す手がかりとして、残念ながらご一緒でき
なかった方々には少しでもオフの様子を感じ取っていただけるように、それぞ
れお楽しみいただければ幸いです。

A.事前レクチャー

集合は、9:45に京都駅前の ぱ・る・るプラザ京都 B1F メディアパーク
笑芭さんが「京都好きの人は早めに来た方が楽しめる」とおっしゃったとおり、
こちらには羅城門の1/10模型の他、京都の歴史に関わる様々な展示がされ
ています。

私は集合時間ぎりぎりにしか到着できなかったので、羅城門模型の写真を撮
るのがせいぜいでしたが。
なんだかいろいろと面白いものがあったようです。今度もう1回行こうかなぁ。

オフ参加者は18名。
羅城門の模型を横目に椅子を丸く並べて座り、最初に笑芭さんからご挨拶が
ありました。
初対面の方も多いので、次は順番に自己紹介。
…が、人のお名前とお顔を記憶するのが全くダメな私、全然どなたがどなたや
ら覚えられませんでした。すみません。

それからいよいよ、平安宮内裏についてのレクチャーが始まるのですが。
配られたレジュメが、すごいんです。
めちゃめちゃ気合も入ってれば手も込んでる。
表紙は「平安宮内裏を歩く」の最初のページにUPされているあの地図、裏表
紙には大内裏と内裏の立体模型がカラー印刷されていて、ひとつひとつの殿
舎についての解説が古典の原文引用付で収められた、資料集といった感じ
のものでした。
更に、大内裏と内裏の復元地図まで。
それだけでもすごいのに、このレクチャーの講師役を務めてくださる伏見さん
からも「補足資料」として20ページ近い小冊子が配られまして。
とにかく詳細な資料に、すっかり夢中になって読み耽ってしまいました。
この日いただいた資料は永久保存版です。ありがとうございました。

レジュメと補足資料を元に、伏見さんから後宮の殿舎を中心にお話を伺いま
した。
(「平安宮内裏を歩く」のコーナーの各ページを別窓で開きながらお読みくだ
さい)

後宮の七殿五舎は、七殿の方が平安宮造営当時から存在し、五舎の方は
后妃の数が増えた平安中期になって増築された建物で、そうした経緯から
七殿の方が格式も上と考えられていたそうです。

源氏物語を読んでいると有力女御の局は弘徽殿と飛香舎(藤壺)という印象
がありますが、歴史的に見ると身分の高い有力な女御が飛香舎に入るように
なるのは源氏物語の書かれた一条朝辺りからで、やはり源氏物語の藤壺中
宮と「かがやく藤壺」藤原彰子の影響が大きかったようです。
加えて、藤壺中宮にしても彰子にしても、選んで飛香舎に入ったというよりは、
入内の時期が遅かったために七殿が既に埋まっていて、五舎の中で最も清
涼殿に近い(=五舎の中では一番格が高い)飛香舎に入ったと見るのが適
当だろうとのことでした。

源氏物語の舞台に設定された醍醐・村上朝から実際に執筆された一条朝の
時代において、後宮で第一位の殿舎は何と言っても弘徽殿、そして弘徽殿に
次ぐのが承香殿でした。
源氏物語に登場する承香殿も、髭黒の妹で東宮の生母となった朱雀帝の女
御が賜っていたように、格式の高い殿舎であったことを窺わせています。
舞台としては、真木柱巻には承香殿の実際の間取りが細かに描かれていま
すが、紫式部という作者の存在を考えるとこの記述、大きな問題を孕んでいる
のだそうです。
紫式部が中宮彰子の許に出仕していた時期、内裏は焼失していて一条院を
御所に充てていました。
したがって、紫式部は実際の承香殿を見たことがない筈。
なぜ紫式部は見たことのない承香殿の間取りを正確に描き出せたのか?と
いう問題が浮上してくる訳です。例えば倉田実氏は「源氏物語で語られる内
裏の様子は、想像力の賜物なのである」(『源氏物語の鑑賞と基礎知識』No.
17「空蝉」)としていますが、さて…?

また歴史上の承香殿は、『貫之集』八一九番歌の詞書にあるように、古今集
の編纂が行われた殿舎としても知られています。
同時にこの詞書からは、承香殿と仁寿殿がかなり近接していたことも感じら
れるのですが、この辺はまた、実際に歩いてみてのお楽しみです。

続いては紫宸殿。
平安初期の内裏では、仁寿殿を天皇の常御殿とし、北の承香殿を後宮、南の
紫宸殿を執務室としていましたが、常御殿が清涼殿に移った後、紫宸殿は非
常に格式の高い公的な宴や儀式を執り行う場となりました。
紫宸殿での宴というと、花宴巻で華々しく描かれた「南殿の桜の宴」がすぐに
思い浮かぶところですが、史実では紫宸殿において桜の花の下で漢詩の宴が
開かれたことはなく、作者が重陽の節会の儀式次第をそっくり春の場面に置
き換えたと推測されるのだそうです。
女のえ知らぬことまねぶは憎きことを」(少女巻)などと大概は詳述を避け
る源氏物語にしては珍しく漢詩の宴の具体的な様子を描いているのも、紫宸
殿で催される行事の重々しさを表現しているのかもしれないとのことでした。
その「格式の高さ」という点で注目されるのが、桐壺巻で語られる光源氏の元
の場面です。
清涼殿の東廂で行われた源氏の元服の儀は、前年の東宮(=後の朱雀帝)
の元服にも劣らないほどであったと語り手は称賛しますが、この東宮の元服が
南殿にてありし」というのがポイントで。
清涼殿があくまでも天皇のプライベートルームであるのに対し、紫宸殿は完全
にオフィシャルな空間であり、この儀式会場に表れる2人の歴然とした身分格
差を見逃してはいけない、とのお話でした。
やむごとなき御思ひ」(桐壺巻)の東宮と「私物」(同)の光源氏との扱いの
違いが、こうしたところに描き込まれている訳ですね。

清涼殿は、村上天皇の時代以降、天皇の日常の御座所であり、源氏物語に
も枕草子にも頻繁に登場します。
よく高校の古典の教科書や資料集に清涼殿の平面図が載っていて、そうした
図では北側に大概「弘徽殿上御局」「萩戸」「藤壺上御局」が東から西へ3つ
並んで記されていますが、30年も前に建築学と日本文学の双方から、弘徽殿
上御局と藤壺上御局との間に部屋はなく萩戸はもっと北側に位置していたこ
とが論証されたそうです。
画期的な研究の成果が教育現場に反映されないのは、不思議でもあり残念
でもあるのですが…。
日本文学サイドから論証なさったのは、オフの前日に伊勢でご講演のあった
岩佐美代子先生。
文春新書『宮廷文学のひそかな楽しみ』(2001年 文芸春秋)の中でも「「萩
の戸」のふしぎ」の項で論点を読むことができます。
『大鏡』師輔伝に記されている、弘徽殿上御局から藤壺上御局を覗いた安子
が、芳子の美貌に嫉妬して土器の破片を投げつけた事件は、弘徽殿上御局
と藤壺上御局が壁1枚を隔てた隣同士だったとする根拠としても注目の記述
なのでした。

清涼殿の西隣の後涼殿は、清涼殿に付属した建物。
絵合巻の帝の御前での絵合では、殿上人が後涼殿の東の簀子に控えていた
ことが語られていますが、この配置も天徳内裏歌合を準拠として描かれたの
だそうです。
伏見さんご配布の資料に、天徳内裏歌合の際の配置図が載っていて、図と
合わせて絵合巻の原文を読むと、その場の様子がとてもよくわかりました。
また、桐壺巻には古く「壺前栽」という別称がありましたが、そのネーミングの
由来でもある、靫負命婦の野分見舞の段の「御前の壺前栽」は、清涼殿と後
涼殿との間の壺庭のことだ、とのお話がありました。
確かに、帝の御前で壺前栽と呼べるところは他にないのですけれど、今まで
全く気づかずに読んでおりました。
はっきりと建物の名称が出てこない書き方をされていると、存外ぼーっと見過
ごしてしまうものですね。

校書殿と蔵人所町屋は、物語にはほとんど登場しませんが、清涼殿に最も近
い位置を占める建物であり、内容的にも蔵人の仕事場と詰所ということで、政
治的に非常に重要な場所であったと考えられます。
内裏は国家政治の中枢であったという、うっかりすると忘れがちな一面を再認
識させてくれる殿舎です。

飛香舎、別名「藤壺」は、源氏物語読者にとっては最も重要な後宮の殿舎で
す。
その名のとおり、前庭に見事な藤の花が植えられており、現在の京都御所で
も飛香舎の藤は健在。これまた古典の教科書などでお馴染みですね。
藤壺が弘徽殿と並んで後宮における最重要の地位を占めるに至った経緯は、
最初にお話があったとおりです。
歴史的には、彰子→威子→章子内親王と、御堂関白家の女達によって世襲
され、3代に渡って中宮の御座所となった訳です。

飛香舎の東隣に位置する弘徽殿は、後宮の中で第一位の格式を誇る殿舎
で、源氏物語においても重要な役割を担っています。
何と言っても有名なのは花宴巻での朧月夜との出逢いの場面ですが、その
発端、藤壺の戸口が固く閉ざされているのを嘆く源氏が「なほあらじに、弘
徽殿の細殿に立ち寄
」る唐突さが、実際に歩いてみると解消すると言われ
て期待は高まるばかり。
想像しているより藤壺と弘徽殿の間はずっと近いです」だそうで…午後が
ますます楽しみになります。

賢木巻で朧月夜が弘徽殿に移った経緯を語った中で「登花殿の埋れたり
つるに
」とあったことでオフ前に掲示板で話題になった(31063108)登華
殿は、藤原定子が賜った殿舎としてよく知られています。
私が掲示板に「新潮日本古典集成の枕草子に登華殿の復元図が載ってい
る」と書き込んだところ、伏見さんが補足資料に載せてきてくださいました。
感謝。
登華殿の間取りは、『大内裏図考證』では全く不明とされていますが、琴音さ
んが調べてくださったところでは他にもいくつかの文献に図面が載っているそ
うで、何が典拠になっているのか気になるところです。

もうひとつ枕草子との関連で有名なのが宣耀殿。
定子が語る、藤原芳子と村上天皇との古今集の試験のエピソードは、平安の
姫君の教養がいかなるものだったかをよく伝えてくれますが、その舞台となっ
たのが宣耀殿でした。
芳子の美しさは、清涼殿での安子の嫉妬ぶりによっても伝えられており、美貌
と教養を兼ね備えた女性だったことがわかります。
宣耀殿は、七殿の中では清涼殿から最も離れた位置にありますけれど、だか
らといって冷遇されているという印象は全くありませんから、殿舎の位置付け
というのは単純に清涼殿との距離の問題だけではないようです。

宣耀殿とは対照的に、日蔭の殿舎という印象が強いのが淑景舎です。
清涼殿から最も遠いという立地条件と同時に、何と言っても桐壺の更衣のイメ
ージが強烈なせいでしょう。
ところで、この「桐壺の更衣」という呼称ですが、更衣は通常1人で殿舎を丸ご
と賜ることはなく、建物の中の一画を局とするのが普通で、少々引っかかりを
もって考えなければいけないのだそうです。
「弘徽殿の女御」や「梅壺の女御」などと同じような意味だとしたら、更衣にあ
るまじき破格の待遇ということになるし、あくまで物語的な呼称に過ぎないの
だとしたら、他の更衣らと相住みで淑景舎の中の一画を賜っていたと考える
のが穏当とのことでした。
一方で、すぐ南の昭陽舎が東宮御所として使用されることが多かったことか
ら、東宮妃の場合は逆に権勢家の女が淑景舎に入る傾向があったようです。

昭陽舎、別称「梨壺」は、凝華舎(梅壺)と並んで東宮御所になることが多く、
敦良親王(後の後朱雀天皇)のときから東宮御所に固定されたそうです。
この辺の昭陽舎の使われ方が、淑景舎の位置付けに影響を与えている訳で
すね。
また、『順集』百十七番歌の詞書にあるように、村上天皇の勅命による後撰
和歌集の編纂と万葉集訓釈の作業が、この昭陽舎で行われました。
文学史の授業で必ず覚えさせられる「梨壺の五人」の名称の由来です。

ところで、この昭陽舎にしろ最初に説明のあった承香殿にしろ、歴史的には
女御や尚侍が賜っている時期も当然ある後宮の殿舎のひとつなのですが、
そこに勅撰和歌集の編纂所が置かれて男性の歌人達が詰めていたというの
ですから、当時の後宮は随分と垣根の低い開放的な場所だったんですね。
日本と中国の後宮の決定的な違いは、宦官の有無(=男子禁制であるか否
か)だと聞いたことがありますが、そういう日本の後宮ののどやかさが、こん
なところからも窺える気がします。

最後にご説明いただいたのが、後宮からは離れて馴染みの薄い殿舎・宜陽
殿。
この南廂には議所があり、貴族達にとって最大の関心事である春秋の除目
はここで行われたのだそうです。
物語を読んでいると、皇室所有の宝物を保管している建物という認識がせい
ぜいで、どうにも印象が薄いのですが、実は政治的に非常に重要な建物だっ
たとのこと。
政治・行政に関わる案件は、まずここに集まった公卿達によって討議され、
その結果が清涼殿の天皇に奏上されて裁可されるという手続を踏んだのだ
そうです。
源氏物語などでは政治向きのことは避けて語りませんので文章には表れま
せんけれど、あるいは須磨巻冒頭で無位無官となっている光源氏の官位剥
奪の決定も、この宜陽殿で為されたのでしょうか。
逆に、帰京して権大納言に返り咲いて以降の源氏の主な勤務場所もここだ
ったのかなぁ?などとあれこれ考えた次第でした。

伏見さんから以上のような(もっと他にもお話くださったかもしれませんが、
これ以上は私のメモ書きからは起こせませんでした)レクチャーがあった後、
続いて団長先生からもご説明をいただきました。

団長先生のご説明につづく

平安宮内裏復元図


参考文献:『平安京提要』「平安宮内裏復元図」

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