校書殿
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね! |
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| 紫宸殿の西、清涼殿の南にあります。 紫宸殿の南庭は、その東側を北から順に、宜陽殿(ぎようでん),日華 門,春興殿が取り囲みますが、それと左右対称をなす形で、西側には、 この校書殿,月華門,安福殿が並びます。 9世紀初めの弘仁年間には、校書殿の存在が確認できることから、 平安宮創建の時から設けられた殿舎であろうと推定されています。 |
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| 格子 | 妻戸 | 遣戸 | 壁 | ||||
参考文献:『大内裏図考証』巻十二上 |
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校書殿は南北九間,東西二間の身舎(もや)の四面に廂(ひさし)をつけ た建物で、東を正面とします。身舎の南北には、それぞれ二間の塗篭 (ぬりごめ)があり、書籍を中心とする御物が収蔵されたことから「文殿 (ふどの)」とも「納殿」とも称されました。 西廂には、北から順に、蔵人所(くろうどどころ),出納・小舎人(こどねり) の候所,校書所が置かれました。 蔵人所というのは、弘仁元年(810年)3月に、嵯峨天皇によって設置さ れた令外の官職のことで、なんと、これは、明治維新後になって廃止 されるまで、原則として各天皇の御代ごとに改補され 常置されてきた のだそうです。 当時、嵯峨天皇は、平城上皇との間が深刻な対立関係になっており、 二人の確執はやがて薬子の変を生み出すことになるわけですが、そう いう状況下にあった嵯峨天皇が 自らの体制を固めようとして、側近を 蔵人として殿上に近侍させたのが蔵人所の初めだったというわけです。 以上のような背景を持って成立した蔵人所のお仕事はといいますと、 機密文書および訴訟のことであったとされています。 蔵人所の長官は別当といい、時として置かれないこともありましたが、 一上(いちのかみ)である左大臣または右大臣から任じられる場合が 多く、寛平9年(897年)に藤原時平が任命されたのが その最初です。 別当の下には、蔵人頭,五位蔵人,六位蔵人,非蔵人,候人,雑色 (ぞうしき),所衆,出納,小舎人,滝口,鷹飼などの職員が置かれまし た。 蔵人頭は蔵人や殿上人を指揮して常侍し、殿上関係の諸事を差配し、 また天皇と太政官のパイプ的な役割を果たしました。彼らは近衛中将 や大弁,中弁を兼ねる場合が多く、「頭中将」とか「頭弁」のように呼 ばれていました。光源氏のライバルとして有名な葵の上の兄・頭中将 も、近衛中将を兼ねる蔵人頭だったというわけですね。 蔵人頭は 殿上では位階の上下にかかわらず常に殿上人たちの首 席に座を占めることになっており、参議昇進にもきわめて有利でした。 それだけに、大変な名誉職であったわけですが、と同時に大変な激 職でもあり、家柄・能力ともに兼ね備えた者でなければ任命されなか ったといいます。 さすがに、あの頭中将は、将来の大物政治家として、若い頃から 源 氏と張り合うだけの器量の持主であったわけです。決して恋愛にうつ つをぬかしているだけの貴公子ではなかった ということですね。(゚-゚)b 次に、蔵人ですが、五位蔵人は蔵人頭を補佐し、六位蔵人もさまざま な公事のみならず天皇の朝夕の御膳に至るまで、殿上の諸事に奉仕 していました。 また、非蔵人というのは「蔵人見習い」とでもいうべき者のことで、彼ら は公事には奉仕しませんでしたが、昇殿は許されていました。同じく 雑色も「将来の蔵人予備軍」という者たちでしたが、こちらは昇殿を許 されていませんでした。非蔵人・雑色ともに、将来蔵人になるにふさわ しい家柄の子弟から選ばれていたことは言うまでもありません。 これに対し、所衆というのは侍層の六位の者から選ばれた者たちの ことで、彼らが蔵人に昇進することはありえませんでした。また、出納 というのは、その名のとおり、出納や管理のことを掌った者たちのこ とで、小舎人も同様の役割を果たしました。 滝口のことは ご存じの方も多いことでしょう。今でも 京都御所の清 涼殿の北側には「滝口」がありますが、その「滝口」に候するところか ら名をつけられた者たちのことです。寛平年間に、初めて武士を滝口 に候せしめ、内裏の警衛に当たらせたのが、滝口の最初といわれて います。 このほか、蔵人所には鷹飼が置かれ、彼らは遊猟用の鷹の飼養と 管理に当たっていました。『源氏物語』では、光源氏が元服した折に、 桐壺帝が加冠役の左大臣に対して、白き大袿に御衣一領の他、蔵 人所の鷹などを賜ったことが左馬寮の御馬、蔵人所の鷹据ゑて 賜はりたまふ。と書かれていました。 すでに、『源氏物語』の舞台となっている時代には、鷹飼は天皇の 権威と深く結びつく性格を持っていたようです。鷹にご興味をお持ち の方は、笑芭の【読み】「大原野の行幸(前)」に関する考察「大原野 の行幸とは?」の中でも触れていますので、ご参考になさって下さい ませ。 さて、次に東廂を見てみましょう。ここの南には右近衛陣があります。 陣座というのは、もともと内裏の警護にあたる左右近衛府の官人た ちの詰所のことで、左近衛陣が紫宸殿の東北廊南面に置かれたの に対し、右近衛陣は、ここ校書殿の東廂に置かれたわけです。 この東廂では、延喜11年(911年)ごろにクジャクが飼われたことから 「孔雀間」と呼ばれています。 また、東廂の北には、正月18日の賭射(のりゆみ)の他、殿上の賭射 の折に、天皇がご観戦になるために設けられた「射場殿(いばどの」 (=「弓場殿(ゆばどの)」とも)がありました。そうした関係もあるので しょうか、校書殿には、中国春秋時代の弓の名人として知られる養 由基が猿を射た障子があったということです。 また、東廂の東側には小さな流れがあり、これを御溝水(みかわみず) と言います。『源氏物語』の「梅枝」巻では、明石の姫君の裳着の儀 式の準備の一つとして、六条院で薫物合せが行われた時のことが 描かれていますが、この時、光源氏は、寝殿に離れおはしまして、 承和の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へたまひ けむ、心にしめて合はせたまふ。つまり、紫の上とはお互いに秘密 にしながら競い合うために、紫の上が薫物の調合をしている東の対 からは離れ 一人寝殿にいて、承和の帝(=仁明(にんみょう)天皇)の ご秘伝で、「男に伝えず」とされた二つの調合法を どうやって伝え聞 いたのか、とにかく、それを熱心に作っていた というわけです。 そして、その秘伝の香は西の渡殿の下から湧き出る遣水の近くに 埋めさせました。香を土の中に埋めるのは、香りを深くするためで、 『薫書類抄』には「埋日数、埋所」として、各家の方に加えて記され ています。一例を挙げますと、公忠朝臣は「黒方、侍従、春秋五日、 夏三日、冬七日、埋之梅樹下」といった調子です。 さて、ここからがポイントなのですが、光源氏が遣水の近くに埋め させたのは、右近の陣の御溝水のほとりになずらへてと書いて あるのです。その前後も含めて原文をご覧下さい。 かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。右近の陣の御 溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀近う埋 ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉、堀りて参れり。宰 相中将、取りて伝へ参らせたまふ。 二月十日、雨が少し降って、薫物合せをするのにちょうどよい湿り 気のある夕暮れ時に、薫物合せの判者をしてもらうのに うってつ けの兵部卿宮が六条院を訪れました。そこに朝顔の前斎院からも 香が届いたものですから、これ以上の機会はありません。薫物合 せをしよう! ということになったわけです。 こうして、光源氏は自分の二種の香を取り出したわけですが、その 香は、仁明天皇が右近の陣の御溝水の辺に香を埋められて以来、 秘法として伝えられてきた その例に倣って、西の渡殿の下から 湧き出る遣水の近くに埋めさせていたのを、惟光の宰相の子の兵 衛尉が掘り出し、宰相中将(=夕霧)が受け取って、光源氏に差し 上げた とあります。 『河海抄』には「承和御時右近陣の辺の地にうつまる後代相伝して 其所をたかへす云々」とありますが、源氏はこれをまねた というわ けですね。(゚-゚)b 校書殿の東廂の東側を流れている御溝水は、「梅枝」巻に「右近の 陣の御溝水」として書かれていた あの御溝水のことだったのです。 |