蔵人所町屋



この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。

石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね!


考文献:『大内裏図考証』巻十二之下

蔵人所町屋の西南角の基壇と雨落ち溝の写真はこちら

蔵人所町屋(くろうどどころまちや)は、後涼殿の南、校書殿(きょうしょでん)
の西にあります。


校書殿の西廂には、弘仁元年(810年)3月に、嵯峨天皇によって設置され
た令外の官職である蔵人所がありますが、この蔵人所に最も近い位置に
あるのが、ここ蔵人所町屋です。

蔵人所町屋については、おそらく蔵人の詰め所であろう という他、何ら史
料を探すことができませんでした。というわけで、校書殿のところでも簡単
に書きましたが、蔵人所の職員について、ここで改めて まとめてみたいと
思います。

蔵人所の職員には、別当(1名),蔵人頭(2名),蔵人(五位,六位含めて8
名),非蔵人(4〜6名),雑色(ぞうしき=8名),所衆(20名),出納(3名),
舎人
(こどねり=6名→平安末期には12名),滝口(最初は10名→白河天
皇のときに30名→その後20名),鷹飼(10名)などがいました。

以下、それぞれについて まとめていきます。
                                                 
別当(1名)

蔵人所の長官。
時として置かれないこともありましたが、一上(いちのかみ)である左大臣
または右大臣から任じられる場合が多く、寛平9年(897年)に藤原時平
が任命されたのが その最初です。

蔵人頭(2名)

蔵人や殿上人を指揮して常侍し、殿上関係の諸事を差配し、また天皇と
太政官のパイプ的な役割を果たしました。彼らは近衛中将や大弁,中弁
を兼ねる場合が多く、「頭中将」とか「頭弁」のように呼ばれました。
蔵人頭は殿上では位階の上下にかかわらず常に殿上人たちの首席に
座を占めることになっており、参議昇進にもきわめて有利でした。それだ
けに、大変な名誉職であったわけですが、と同時に大変な激職でもあり、
家柄・能力ともに兼ね備えた者でなければ任命されなかったといいます。

蔵人(五位,六位含めて8名)

五位蔵人は蔵人頭を補佐し、六位蔵人もさまざまな公事のみならず天皇
の朝夕の御膳に至るまで、殿上の諸事に奉仕していました。
仁和4年(888年)には五位蔵人の定員は2名に定められましたが、院政
期に入り、3名が常のこととなりました。五位蔵人には、近衛少将,衛府
佐,少弁等が多く任命されています。このうち、衛門佐と弁官を兼ねる場
合を「三事兼帯」と言って、特別な名誉とされました。蔵人になるには、家
柄だけでなく本人の能力も必要とされましたが、平安末期ごろになります
と、家柄のほうがより重視され、近衛少将を兼ねる蔵人は激減し、衛門
佐や弁官を経る名家流の人々が主として任命されるようになりました。
また、10世紀以前には、源氏を除くほとんどの公卿が六位蔵人の経験
者であったのに対し、藤原氏の主流の人々が五位直叙の特権を手にし
たことを境にして、公卿たちに占める六位蔵人経験者の比率も低くなり
ました。

蔵人は、六位でも昇殿を許され、また、五位蔵人とともに禁色をも許され
ており、昇進にも有利でした。ですから、六位蔵人という職は、六位層に
とっては 羨望の的であったわけです。

非蔵人(4〜6名)

「蔵人見習い」とでもいうべき者。彼らは公事には奉仕しませんでした
が、昇殿を許されていました。

雑色(ぞうしき=8名)

「将来の蔵人予備軍」という者。ただし、こちらは昇殿を許されておりま
せんでした。非蔵人・雑色ともに、将来蔵人になるにふさわしい家柄の
子弟から選ばれていたことは言うまでもありません。

所衆(20名)

侍層の六位の者から選ばれた者。
彼らが蔵人に昇進することはありえませんでした。

出納(3名)

出納や管理のことを掌った人たち。
後には地下(じげ)の蔵人方のことをすべてとりしきるようになりました。

小舎人(こどねり=6名→平安末期には12名)

出納と同様の役割を果たした人たち。
御倉小舎人と称し、殿上からの召を受けて、殿中の公用に就事すること
を職掌としました。
また、蔵人所から発遣される諸使にあてられることも多く、蔵人所の発
給する牒には、小舎人の名が使として載せられるのが例でした。
官人としては史生(ししょう)に任命されるのが一般的でしたが、彼ら自身
は衛門志(えもんのさかん)に任命されることを競望したといいます。

ちなみに、平安時代以降、公卿の子息で元服前の者を童形のままで昇
殿させ、殿上に候せしめた者のことも小舎人と言いますが、それは「殿
上小舎人」または「童殿上」と称し、別のものです。こちらに関しては、
天慶6年(943年)の4月に、大納言藤原実頼の子息である小舎人藤原
斉敏が加冠して御前に召されたという記事が『日本紀略』にあり、この
前後から童殿上を意味する小舎人たちも 史料上に姿を現すようになる
のでした。

滝口(最初は10人→白河天皇のときに30人→その後20人)

禁中を警衛する武士。清涼殿の北東にある御溝水(みかわみず)の落ち
るところ(=滝口)に候していたことから その名をつけられた者たちのこ
とで、寛平年間に、初めて武士を滝口に候せしめ、内裏の警衛に当たら
せたのが、滝口の最初といわれています。

滝口は五位,六位の武勇ある侍のなかから、特に弓術に秀でた者が選
ばれ、宮中の警衛にあたっていました。そのほか、天皇の乗船に供奉し
たり、諸種の雑役にもあたっていたようです。

20名のうち、勤務年数の長い者から一臈,二臈,三臈の3人を上臈(じょ
うろう)といい、四臈を事行(じぎょう)といいました。上臈は10日,四臈以
下は5日の勤務でした。

滝口は御所に宿直しますが、昇殿は許されませんでした。

宮中では、毎晩亥の一刻(夜の9時ごろ)に、殿上に宿直する侍臣や近
衛の官人が名乗りをし、これを宿直申(とのいもうし)、あるいは、侍臣以
上については、名対面(なだいめん)と言います。この侍臣の名対面の後
に滝口が弓弦(ゆづる)を鳴らして宿直申をするのですが、先述のように
彼らは昇殿を許されていませんでしたから、滝口が姓名を名乗るのを蔵
人がとりついでいたわけです。

さて、滝口のことは『源氏物語』の「夕顔」巻でも出てきています。

夕顔がなにがしの院で物の怪に襲われて、怯え苦しんでいた時に、物の
怪を退散させるべく弓弦を鳴らしたのは、源氏が親しく使っていた滝口で
した。その滝口の弓弦を聞いた源氏は、内裏を思い出し、「名対面は過
ぎた頃だろう、滝口の宿直申はちょうど今ごろか」と推量するのでした。

では、この場面を原文でご覧下さい。

この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴
らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内
裏を思しやりて、「名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」
と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。


さて、この滝口たち、天皇が退位されて上皇になられますと、その多くは
引き続き、院の武者所に武者として奉仕したということです。

鷹飼(10人)

遊猟用の鷹の飼養と管理に当たる者。

桓武天皇は非常に鷹狩を好まれ、しばしば河内の交野(かたの)で放鷹
遊猟を行われました。
その一方で、私的に鷹を飼うことが禁制され、大同3年(808年)には、親
王,観察使以上,六衛府次官以上にだけは特に許されたものの、鷹飼
は天皇の権威と結びつく性格を強めていったのです。

そのことは、弘仁11年(820年)以来、主鷹司に置かれた鷹飼30人・犬30
牙のうち、鷹飼10人・犬10牙が蔵人所に割置された点にもあらわれてい
ます。
さらに、主鷹司には、貞観2年(860年)以後は官人が置かれず、元慶7
年(883年)には、鷹飼10人・犬10牙が蔵人所に長く所属することが定め
られました。

また、このころまでには、諸国に禁野が設定され、貞観2年(860年)には
禁野での鷹狩を禁ずるとともに、無頼の輩が野守(のもり)を理由に百姓
の採草採木を妨げることを抑制しています。鷹狩は天皇にのみ許された
スポーツであるという性格が さらに強まってきたわけですね。

醍醐天皇もまた鷹を好まれ、しばしば北野・大原野に遊猟し、蔵人所に
属する鷹飼たちに鷹狩を行わせています。

しかし、10世紀以後になりますと、天皇の遊猟は行われなくなり、鷹飼の
殺生を厭う説話なども『今昔物語集』に登場してきます。こうして、朝廷の
鷹飼はしだいに儀式化していくのですが、とは言っても、鷹飼は天皇に
直属するものであり、やがて 鷹飼は近衛府の下級官人の家に固定する
ようになっていくのでした。


さて、鷹飼のことは『源氏物語』の「行幸」巻と「藤裏葉」巻の2箇所、
いずれも行幸の場面で出てきます。この場面は、どちらも私が【読み】を
担当しましたので、そこから引用してみましょう。

まずは、「行幸」巻の大原野行幸です。

近衛の鷹飼どもは、まして世に目馴れぬ摺衣を乱れ着つつ、気色
ことなり。


【直訳】近衛府の鷹飼たちは、まして世にも目馴れぬ摺衣を各自が思い
思いに着ており、様子が格別である。

【妄想モード訳】父から後で聞いた話では、中でも近衛府の鷹飼たちの
様子はとりわけ格別で、左方が赤白橡(赤き白つるばみ)地の摺衣を 
そして右方が青白橡(青き白つるばみ)地の摺衣を それぞれ思い思いに
着ていたとのことでございました。

ちなみに、この妄想モード訳は、『李部王記』で、醍醐天皇延長六年十
二月五日の大原野行幸の様子をチェックして書いたものです。


次に「藤裏葉」巻の六条院行幸の場面です。

池の魚を、左少将とり、蔵人所の鷹飼の北野に狩仕まつれる鳥一
番を、右の少将捧げて、寝殿の東より御前に出でて、御階の左右
に膝をつきて奏す。


【直訳】池の魚を、左少将が手に取り、蔵人所の鷹飼が北野で狩をして
きた鳥の一つがいを、右少将が捧げて、寝殿の東から御前に出て、御
階の左右に膝をついて(献上の由を)奏上する。

【妄想モード訳】池でとれた魚を、左近衛の少将が受け取り、また、蔵人
所の鷹飼が朝早くから北嵯峨の野に出掛けて狩をしてきた鳥の一番を、
右近衛の少将が捧げ持って、寝殿の東から御前に歩み出てまいります。
そして、それぞれが御階の左右に膝まづいて帝にご覧入れるのでした。
常ならば、鵜よりも鷹のほうを上 つまり左にすべきところなのかもしれま
せんが、御前の池でとれた魚ゆえ、このたびは鷹よりも鵜のほうを上と
されたようでございます。


ご興味をお持ちの方は、大原野行幸の【読み】六条院行幸の【読み】
もあわせてご覧下さいませ。

また、赤白橡(赤き白つるばみ)はこちら、青白橡(青き白つるばみ)は
ちら
でご覧いただけます。ご参考までに・・・。


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