後涼殿
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね! |
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| 後涼殿(こうりょうでん=「こうろうでん」とも)は、清涼殿に付属した建物 で、清涼殿の西にあり、清涼殿とは南北・中央の渡廊によって通じてい ます。 |
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参考文献:『大内裏図考証』巻十二上 |
身舎(もや)は南北九間、東西二間で、身舎の中央には、東西に馬道が あって、馬道をはさんだ南北にはそれぞれ納殿(おさめどの)がありまし た。この納殿には、衣服や調度品が納められていたといいます。 身舎の四方には庇(ひさし)があり、さらにその東側には簀子が、西側 には土庇があります。 この東側にある簀子のことは、『源氏物語』の「絵合」巻にも出てきて います。三月二十日過ぎに、帝の御前で絵合せが行われた時、殿上 人たちは後涼殿の簀子に控えながら、それぞれ 左方・右方のいずれ かに心を寄せていましたが、その時の様子が 殿上人は、後涼殿の 簀子に、おのおの心寄せつつさぶらふ。と描かれています。 後涼殿が清涼殿に最も近い建物であったからこそ、殿上人たちはこ こに控えていたわけですね。 さて、西庇には、天皇のお食事を調製する御厨子所(みずしどころ)が 置かれ、南側を「上御厨子所」、北側を「下御厨子所」として分けてい ました。 御厨子所について、もう少し詳しく書きますと、ここは、蔵人所の支配 下にあって、内膳・内蔵・造酒・大膳および諸種の御厨がおかれ、天 皇の供御(くご)関係のことを弁じたところです。 御厨子所の名が初めて史料に出てくるのは寛平元年(889年)で、以後 の様子も、わずかに逸文として残る御厨子所例などによってうかがう ことができます。ご興味のある方は、四衛府日次御贄(ひなみみにえ= 897年制定),六ヶ国日次御贄(911年制定),近江国日次乳貢進(910年 制定)等の制において、御厨子所が蔵人所の指示を受けて奉仕したこ とが知られていますので、ご参考になさって下さい。 また、南庇には御膳宿(おものやどり)があって、すべての飲食物がここ に置かれました。 後涼殿の北側には、飛香舎(藤壺)がありますが、『源氏物語』の「宿木」 巻では、藤壺で藤の花の宴が催された時、後涼殿の東に楽所の人び とが召されたことが 次のように書かれています。 後涼殿の東に、楽所の人びと召して、暮れ行くほどに、双調に吹 きて、上の御遊びに、宮の御方より、御琴ども笛など出ださせたま へば・・・ さて、『源氏物語』における後涼殿といえば、何と言っても一番有名な のは「桐壺」巻です。 光源氏の母更衣が賜った局は桐壺でした。桐壺は主上のおられる清 涼殿から最も遠く、そのため、主上のもとに参上するには、大勢の妃 たちの局の前を通って行かなければなりません。主上からのお召しは ひっきりなしにありましたから、他の妃たちは、それを見て おもしろい はずもなく、桐壺から清涼殿に向かう通路のあちこちに、あやしきわざ つまり、けしからぬことをたびたびしかけて嫌がらせをしたといいます。 具体的には、汚物をまいて、送り迎えの女房の着物の裾を汚れるよう にしたり、通路にあたる馬道の戸を鎖して閉じ籠める というようなこと をやったわけですね。 桐壺の更衣がそんな仕打ちにたいそう悩んでいるのを知った帝は、桐 壺の更衣に、後凉殿を上局として御下賜あそばされました。しかし、そ のためには、今まで後凉殿を局としていた更衣を他の場所に移す必要 が生じるわけで、桐壺の更衣は さらに多くの恨みをかうことになってし まうのでした。 それでは、この場面を原文で見てみましょう。 あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしき わざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこと もあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかな た心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。事にふ れて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、 いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の 曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨みましてやらむ 方なし。 さて、この時、更衣が上御局として賜ったのは、後涼殿の東庇であろう と考えられています。 本来、後涼殿の東庇は、女官の候所や内侍等の曹司に使わていまし たから、ここを更衣の局にしたというのは、女御や更衣があまたさぶら っていた桐壺帝の御代ならではのことだろう とのお説もあるようです。 しかし、『伊勢物語』第百段にも、後涼殿の東庇を局としていたと思わ れるやむごとなき女性が登場していますので、『源氏物語』にのみ見 られるフィクションとばかりも言い切れないように 私は思います。 それでは、『伊勢物語』第百段をご覧下さい。 むかし、男、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の 御局より、「忘れ草を忍ぶ草とやいふ」とて、いださせたまへりけれ ば、たまはりて、 忘れ草おふる野辺とは見るらめどこはしのぶなりのちも頼まむ ある男が、後涼殿と清涼殿の間を渡っていたところ、ある高貴な女性 から「忘れ草を忍ぶ草とやいふ」とのメッセージつきで、忘れな草をも らい、それに歌で応えた という場面です。この時の「御局」はやはり 後涼殿の東庇であったと思われます。 この他、『大鏡』「伊尹」伝には、馬好きでいらした花山天皇が、後涼殿 の馬道から朝餉の壺へ馬を引き入れて殿上人を乗せたり、ご自分も乗 られたりして 顰蹙をかわれた というお話も載っています。 |