弘徽殿
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね! |
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弘徽殿(こきでん)は平安宮内裏の後宮殿舎の中でも、とりわけ格の高い 重要な殿舎で、洪輝殿,弘輝殿,弘暉殿とも記されました。清涼殿の北、 常寧殿の南西に位置し、常寧殿の南東にある麗景殿とは、左右対称を なしています。 |
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参考文献:『大内裏図考証』巻十七 |
東面を正面とし、身舎(もや)は南北七間,東西二間で、身舎の四面に廂 (ひさし)をめぐらし、東面には孫廂がつき、さらに東と北には簀子もありま した。 身舎の中央には馬道が設けられ、身舎は南北各三間ずつの二つの部 分に分けられました。このうち、北側の身舎の西側には塗篭が造られ、 収蔵施設に用いられたことから納殿と呼ばれていました。 東廂は障子によって、北が三間,南が四間の二つの部分に分けられて おり、北廂と東孫廂の外側には欄干と簀子(すのこ)がめぐらされていま した。また、北廂の北東からは、常寧殿の西へと続く渡廊が東へのびて おり、北側には、登花殿の南につながる切馬道がありました。 さて、次はいよいよ弘徽殿の西廂について……です。 弘徽殿の西廂は南北九間と細長く、そこから、細殿と呼ばれていました。 そう、『源氏物語』の「花宴」巻において、宴の後、源氏が朧月夜と初め て出逢う印象的なシーンの舞台となったあの細殿が ここなのです。 まずは、原文をご覧下さい。 月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐし がたくおぼえたまひければ、「上の人びともうち休みて、かやうに 思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやある」と、藤壷わたりを、 わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口も鎖してければ、 うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、 三の口開きたり。 女御は、上の御局にやがて参う上りたまひにければ、人少ななる けはひなり。奥の枢戸も開きて、人音もせず。 「かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし」と思ひて、やをら 上りて覗きたまふ。人は皆寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、 なべての人とは聞こえぬ、「朧月夜に似るものぞなき」 宴も終わり、源氏の君は月の美しさに誘われるかのように、酔心地で 藤壷の辺りをあちこち窺います。しかし、藤壷の戸口はかたく閉ざされ ていました。しかたなく、すぐ東にある弘徽殿の細殿に沿って石畳を北 に歩いていったところ、三の口には鍵がかけられておらず、細殿の中 に入ることができました。さらに、奥の枢戸(くくるど)、つまり、塗篭の枢 戸も開いていたのです。そこに、若々しく美しい声で「朧月夜に似るも のぞなき」と詠ずる女君が現れ、二人はこの塗篭で一夜を明かすこと になったのでした。 その後、「賢木」巻では、朧月夜が弘徽殿に住むようになった経緯が 次のように語られています。 御匣殿は、二月に、尚侍になりたまひぬ。院の御思ひにやがて尼 になりたまへる、替はりなりけり。やむごとなくもてなし、人がらも いとよくおはすれば、あまた参り集りたまふなかにも、すぐれて時 めきたまふ。后は、里がちにおはしまいて、参りたまふ時の御局 には梅壷をしたれば、弘徽殿には尚侍の君住みたまふ。登花殿の 埋れたりつるに、晴れ晴れしうなりて、女房なども数知らず集ひ参 りて、今めかしう花やぎたまへど、御心のうちは、思ひのほかなり しことどもを忘れがたく嘆きたまふ。 御匣殿(みくしげどの)というのは、朧月夜のことです。彼女は尚侍にな り、朱雀帝から格別な寵愛を受けていました。桐壺帝の御代、弘徽殿 に住んでいた朱雀帝の母后も今では里がちでした。それで、彼女は 参内する時の局には梅壷を使うようにし、妹である朧月夜に弘徽殿を 譲ることにしたのです。朧月夜はそれまで住んでいた登花殿から 後宮 NO.1の格を誇る弘徽殿に移り、当世風で華やかな暮しぶりになったと いうことです。 飛香舎のところでもいいましたが、後宮において、このように同じ殿舎 を一門の者が世襲できたのは、それだけその一門(この場合は、右大 臣家)が権門だったからに他なりません。 なお、細殿に沿って敷かれていた石畳のことは、次にご紹介する『金葉 和歌集』雑上の皇后宮大貳の歌と詞書からも推し量ることができます。 皇后宮、弘徽殿におはしましける頃、俊頼、西おもてのほそ殿に て、立ちながら人にもの申し侍るに、夜の更けゆくまゝに、苦しかり ければ、上にゐたりけるをみて、たゝみをしかせばやと、女の申し ければ、石だゝみ布かれて侍るめると申すを聞きてよめる 石だゝみありける物を君に又しくものなしと思ひける哉 また『西宮記』によれば、この細殿では、康保2年6月7日に「競馬(くら べうま)の事」があって、左右の馬三頭が石畳の壇を引きまわされたと いうことです。 さらに、弘徽殿の東庭には、萩と柿が植えられており、延喜御時、8月 15日の夜に、蔵人所の男たちがこの東庭で、萩の花を愛でつつ月の 宴を催したことや、その他、『三代実録』や『百錬鈔』によれば、この東 庭で闘鶏が行われたことなども記録に残されています。 弘徽殿については、まだまだ書きたいことが多いのですが、弘徽殿を 賜っていた歴史上の女性たちや、源氏物語における弘徽殿について は、また後日、まとめてみたいと思っています。 |