常寧殿
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね! |
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| 常寧殿(じょうねいでん)は後宮の中心に位置し、皇后,女御の常住する 建物でした。 内裏における皇后御所として建てられた経緯からは「后町(きさきまち)」 と、また、後に五節(ごせち)の帳台試(ちょうだいのこころみ)がここで行 われるようになったことからは「五節殿」,「五節所」とも称されていまし た。 貞観殿の南,承香殿の北にあたり、北の貞観殿とは2本の渡廊で、南 の承香殿とは后町廊でつながっています。 また、常寧殿の南東には麗景殿,南西には弘徽殿があり、常寧殿との 間はそれぞれ立蔀(たてじとみ)で隔てられていました。 |
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| 壁 | 妻戸 | 格子 | |||||
参考文献:「平安宮常寧殿推定平面図(平安初期)」 鈴木 亘「平安宮常寧殿の建築について」 |
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常寧殿は身舎が東西七間、南北二間で、四面に庇をめぐらし、南と北に は孫庇も付いていました。 このうち西側は、庇の部分も念めて塗籠(ぬりごめ)になっており、夜の御 殿でした。また、東側の身舎と身舎につづく南庇は昼の御座となっており、 このような常寧殿の規模や形態は、仁寿殿のそれと大変よく似ているこ とが指摘されています。 さて、常寧殿を舞台とする年中行事としては、豊明節会(とよのあかりの せちえ)に向けて11月の中の丑の日(=11月で2番目の丑の日)に行わ れる五節の帳台試があります。 五節の儀式には、この他、翌日の寅の日に、舞姫を清涼殿の廂の間で ご覧になる「御前の試み」や、3日目の卯の日に、舞姫につきそう童女を 清涼殿に召し、下仕えを殿上に召す「童女御覧」があり、最終日にあた る4日目の辰の日が、本番の豊明節会となっていたわけです。 五節舞は、天武天皇が吉野宮で琴を弾じた時に、前山の下に天女が降 臨して袖を5度翻して舞った という伝承をかたどった舞で、桧扇を手に した5人(又は4人)の舞姫によって舞われるものです。5人の舞姫の内 訳は、公卿から3人(又は2人),国司などから2人が選ばれました。 この時、大歌所の別当が歌人をひきいて五節の歌を歌いますが、その歌 は大歌(おおうた)といい、歌詞は「をとめごが をとめさびすも、からたまを たもとにまきて、をとめさびすも」というものでした。 『続日本紀』天平15年(743年)5月5日条には、この舞が単なる娯楽では なく、礼楽のことわりを教える舞であることが記されています。 現在再興されている五節舞は、1915年に大正天皇即位の大礼に際し、 曲,舞とも新作されたものだそうですが、その五節舞については、こちら にUPしておりますので、ご興味をお持ちの方はご覧下さい。 さて、五節舞については、『紫式部日記』の中でもずいぶんと筆をさいて 書かれています。その一部をご紹介しましょう。 五節は、二十日にまゐる。侍従の宰相に、舞姫の装束などつかは す。右の宰相の中将の、五節にかづら申されたる、つかはすつい でに、筥一よろひに薫物入れて、心葉、梅の枝をして、いどみきこ えたり。 にはかにいとなむつねの年よりも、いどみましたる聞こえあれば、 東の御前のむかひなる立蔀に、ひまもなくうちわたしつつともした る灯の光、昼よりもはしたなげなるに、あゆみ入るさまども、あさ ましうつれなのわざやとのみ思へど、人の上とのみおぼえず。ただ かう、殿上人の、ひたおもてにさしむかひ、脂燭ささぬばかりぞか し。屏幔ひきおひやるとすれど、おおかたのけしきは、同じごとぞ 見るらむと、思ひ出づるも、まづ胸ふたがる。 昼のように明るく脂燭がともされる中、五節の舞姫たちが殿上人たちの 視線を浴びながら参入してくることを、紫式部が非常に気の毒に思って いる様子がよくわかりますね。 当時、女性は父親や兄弟などの身内の者に対してさえ、男性に顔を見せ ることはしていませんでした。そればかりか、恋人あるいは夫と 床を同 じくするような関係になってさえも、すぐにはっきりと顔を見せたわけでは ありません。 末摘花の例だけでなく、明石もまた、源氏にはっきりとその容貌を見せた のは、源氏が明石を出立して京に戻るという時になって初めて……という 次第でした。 ですから、今で言えば、タキシードを着た男性たちが大勢見守る中を、非 常に露出部分の多い水着姿で出て行くような覚悟が 舞姫たちには求め られていたのかもしれませんね。 残念ながら、この時の内裏は里内裏でしたから、五節の帳台試も一条院 の東の対で行われたのですが、東の御前のむかひなる立蔀という記述 からは、登花殿(=常寧殿の西側に位置する)の東面にあったとされる立 蔀が、里内裏においても再現されていたのだろうか? などと、ついつい 考えてしまうのでした。 『源氏物語』の中でも、五節の舞姫のことは何度か出てきています。 その中でも、「少女」巻で、惟光の娘が五節の舞姫となった時の様子は 詳しく描かれていますから、少しだけですが、ご覧下さい。 大殿には、今年、五節たてまつりたまふ。何ばかりの御いそぎならね ど、童女の装束など、近うなりぬとて、急ぎせさせたまふ。(中略) 御前に召して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせてと定めたまふ。 捨つべうもあらず、とりどりなる童女の様体、容貌を思しわづらひて、 「今一所の料を、これよりたてまつらばや」 など笑ひたまふ。ただもてなし用意によりてぞ選びに入りける。 今年は源氏の所から五節の舞姫を差し上げることになり、舞姫には惟光 の娘が選ばれました。童女や下仕えの人々の準備にいたるまで、並大抵 ではない力の入れようです。 源氏は、天皇の前に召されて御覧いただくそのリハーサルとして、自分の 前を通らせてみて、どの童女を選ぶべきかを決めようとしたのですが、ど の童女も姿態・器量ともに素晴らしく、「もう一人分の舞姫の介添役をこち らから差し上げたいものだ」との冗談が思わず出るほどでした。 こうして最終的に選ばれたのは、ルックスにプラスして、振る舞いの美しい 童女たちだったということです。 また、『枕草子』にも五節のことはずいぶんと詳しく書かれています。 その中から、ポイントだけ抜き出してみますね。 宮の五節出させ給ふに、(中略)宮の女房を十人出させ給ふ。 (中略)辰の日の青摺の唐衣・汗衫を、着せさせ給へり。 辰の日というのは、五節の儀式の最終日にあたる4日目のことで、本番 である豊明節会が紫宸殿で行われる日のことです。 舞姫は、すけまさの馬頭の女、染殿の式部卿の宮の御弟の四の君 の御はら、十二にていとをかしげなり。(中略)やがて仁壽殿よりと ほりて、清涼殿の前の東のすのこより舞姫をさきにて、うへの御局 へ參りしほど、をかしかりき。(中略) 最終日の豊明節会もついに終わり、舞姫を先頭に、介添役の者たちも 皆揃って、紫宸殿を退出し、仁寿殿を通って清涼殿の東の簀子から、弘 徽殿(こきでん)の上御局(うえのみつぼね)に参上してくるのでした。 帳台の夜、行事の蔵人いと厳しうもてなして、かいつくろひ二人、童 より他は入るまじとおさへて、面にくきまでいへば、殿上人など「猶 これ一人ばかりは」などのたまふ。「うらやみあり。いかでか」などか たくいふに、宮の御かたの女房二十人ばかりおし凝りて、ことごとし ういひたる蔵人何ともせず、戸をおしあけてさざめき入れば、あきれ て「いとこはすぢなき世かな」とて立てるもをかし。それにつきてぞ、 かしづきども皆入る。けしきいとねたげなり。うへもおはしまして、 いとをかしと御覧じおはしますらんかし。童舞の夜はいとをかし。 燈台に向ひたる顏ども、いとらうたげにをかしかりき。 引用が長くなってすみません。でも、まさに、こここそが、常寧殿を舞台と する年中行事「五節の帳台試」について書かれているところなので、お 許し下さい。 五節の帳台試は、常寧殿の塗籠に帳台を設置し、その上で5人の舞姫 が五節の舞を舞うのを、天皇がご覧になる というものです。普段は御 引き直衣(おひきのうし)姿の天皇が、この時だけは直衣に指貫姿で沓を 召される というのも、ポイントの一つでしょうか。 さて、この日の帳台試は、なかなかすごいもの(笑)だったようです。 職務に忠実な蔵人が、「役目についている者以外は、絶対に塗籠には 入れないぞ!」と頑張って戸を押さえており、いくら殿上人が「一人くらい ええやんか!」と言っても「他の人からズルイと思われるでしょ? ダメ です!」としか答えていませんでした。ところが、「五節の舞を見たい!」 という宮の御方の女房たちが二十人ほどの集団となって、この蔵人の 制止をものともせず、実力行使で戸を押し開けて入っていってしまった ものですから、さあ大変!! さすがの蔵人も茫然として立ちつくすし かなかった……というお話です。 さすがは、清少納言! 紫式部とはうってかわって、実に明るく軽いタッチ で五節の舞の様子を描いていますね。こうして見てみますと、ある意味、 いろんな価値観が許された けっこう自由な時代であったのかもしれま せん。 さて、このへんで、五節の話題からは離れましょう。同じく『枕草子』には、 常寧殿と承香殿とを結ぶ后町の廊の南第一間の東面にあったとされて いる后町の井のことが書かれています。(第百六十一段) 井は、ほりかねの井。 玉の井。 走り井は、「逢坂」なるが、をかしき なり。 山の井、など、さしも「浅き」ためしになりはじめけむ。 飛鳥井 は、「御水も寒し」とほめたるこそ、をかしけれ。千貫の井。 少将井。 桜井。后町の井。 后町の井については、この他、『今昔物語集』巻二十四に、延喜御時に、 僧の寛蓮が、金の御枕を懸物にして宇多天皇と碁を指して勝ち、退出し た帰途を若い殿上人に襲われて、金の御枕を奪われそうになったので、 后町の井に投入したところ、殿上人たちは皆、あきらめて去って行った という話が載っています。 さらに、『古今著聞集』巻七には、九条大相藤原伊通がまだ淺位のころ、 何気なく后町の井を覗いてみると、自分の顔に丞相(=大臣)の相が見 え、喜んで家に帰って鏡を見たところ、そんな相はなく、再び内裏に参上 した折に后町の井を覗いてみたら、やはり丞相の相が見えた……という 不思議なお話も載っています。 また、常寧殿の南庭については、『平家物語』の中に、 天慶二年四月五日の大地震には、主上御殿を去て、常寧殿の前に 五丈の幄屋を立ててましましけるとぞ承る。 との記載があり、他にも、延喜17年3月6日には、「春夜翫桜花(春夜桜 花を翫ぶ)」という詩題が与えられて、ここ常寧殿の南庭に植えられてい た桜の花を愛でる花の宴も開かれています。 この他、晴の儀式としては、常寧殿の昼の御座で、寛平4年(892年)に、 中宮班子の六十賀が執り行なわれ、また、承平4年(934年)には、皇太 后穏子の五十賀が、天皇・中宮出席のもとで催されており、どちらも、后 町の名を持つ常寧殿にふさわしい儀式であるといえるものでした。 |