仁寿殿
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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石碑を置いた場所をクリックしてみて下さいね! |
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| 仁寿殿(じじゅうでん=「じんじゅでん」とも読む)は紫宸殿の北、承香殿 の南にあり、紫宸殿を「前殿」というのに対して、弘仁ごろまでは「後殿」 といわれました。また、承香殿をも含めた配置からは「中殿」と呼ばれる こともあったようです。 東西七間、南北四間の身舎の四方に庇をめぐらし、南の紫宸殿、北の 承香殿とは、東・中・西の3つの渡殿によって連絡しています。 |
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| 壁 | 妻戸 | 格子 | 壁上連子(連子窓) | ||||
参考文献:「平安宮仁寿殿推定平面(平安後期)」 鈴木 亘「平安宮仁寿殿の建築について(その1)」 |
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| 元来、ここは天皇の常御殿(=御在所=常住の建物)でした。 仁寿殿が常御殿であったことは、石灰壇が(東南角に)あることからも うかがえます。 この仁寿殿を中心に、北の承香殿を後宮とし、南の紫宸殿では儀式を 行う というのが、もともと、内裏としての機能の中核をなすものだった のです。 天皇のプライベートルームと言いますと、私などはすぐに清凉殿を思い 浮かべるのですが、清凉殿が天皇の御座所として固定されるのは、 宇多天皇の御代からのことなのです。 それまでは、たとえば、桓武天皇は崩御された場所が仁寿殿であった ことから、その御座所も(一説によれば)仁寿殿であったであろうと さ れていますし、また、淳和天皇と光孝天皇のお二人は、一貫して ここ 仁寿殿を常御殿としておられたことも わかっています。 紫宸殿が内裏における公的な「ハレ」の場であったのに対して、仁寿 殿は「ケ」の場であり、ここでは、内宴,相撲,蹴鞠,観音供などが行 われていました。 こうして、平安時代中期になりますと、天皇の普段の生活は清凉殿に とってかわられ、その影響が大きかったのでしょうか、平安時代末期 には、仁寿殿は無人の建物のような状態であったともいいます。 また、平安末期まで行かずとも、『大鏡』巻五には、花山院の御代に、 道長の豪胆さを示す こんなエピソードが記されています。 ある雨の降る五月の夜のこと、殿上で みなが恐〜い話をしていて、 「こんな夜に 人のいないところに一人で行くのは ゾッとするね」と言い あっていた中、道長だけが「どこへだって行きますよ」と言い放ったの です。 それをお聞きになった帝は、「それはおもしろい! だったら、道隆は 豊楽院、道兼は仁寿殿の塗篭、道長は大極殿へ行け。」と、兼家の 三人の子息たちに向かって それぞれ別々なところへ行くよう 仰せ られました。 はたして、三人はこの仰せごとを無事に果たせたのでしょうか?! 結論から言えば、道長だけが本当に行ってきて、その証拠として、 大極殿にある高御座の南面の柱のもとを 小刀で削り、その削り屑 を持ち帰ってきたのです。翌朝、蔵人に命じて、柱の削り跡に その 削り屑をあててみたところ、ピッタリと符合した というお話です。 さて、ここでは、大極殿へ行った道長よりも、仁寿殿の塗篭に行けと 言われた 道兼のその後のほうが 気になりますよね。(゚-゚)b 『大鏡』を見てみましょう。 粟田殿は、露台の外まで、わななくわななくおはしたるに、仁 寿殿の東面のみぎりのほどに、軒と等しき人のあるやうに見 えたまひければ、ものもおぼえで、「身のさぶらはばこそ、仰 せごともうけたまはらめ。」とて、おのおのたち帰り参りたまへ れば・・・ 粟田殿 つまり道兼は、一応、しぶしぶながらも仁寿殿の東面の敷 石の側までは行きましたが、中に入ることもなく「命あってのものだ ねだ」とばかりに、そそくさと帰ってきて、帝から笑われているのでし た。 こうした話が残っているところをみましても、すでに平安時代中期の 段階で、仁寿殿の辺りが荒廃しかけていたことがうかがえます。 仁寿殿の東庭には紅梅が植えられ、宴にも使用されたということです。 |