飛香舎(藤壷)
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この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。 |
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飛香舎(ひぎょうしゃ)は、平安宮の内裏五舎の一舎で「ひこうしゃ」,「ひぎ ょうさ」ともいいます。また、前庭に藤を植えたことから「藤壺(ふじつぼ)」と も称されています。 内裏の西北部にあり、凝花舎(ぎょうかしゃ)の南,弘徽殿(こきでん)の西 に位置します。 |
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| 壁 | 遣戸 | 蔀 | 障子 | ||||
参考文献:『大内裏図考証』巻十八 |
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身舎(もや)は東西五間,南北二間で、四方に庇(ひさし)があり、さらに 東・西・北の3面には孫廂もあり、南と東には簀子がめぐらされていま した。 南にある後涼殿,北にある凝花舎とは、それぞれ渡廊で結ばれており、 とりわけ、南側簀子の東端からは渡廊を介して清涼殿の西北の廊に 出ることができます。このように、飛香舎は五舎の中で天皇が居所し ておられる清涼殿に最も近いことから、弘徽殿(こきでん)とともに、後 宮における重要な位置を占めることになりました。 とはいえ、飛香舎が後宮の中で重要な位置を占めるようになったのは、 内裏が創建されたはじめからのことでは 決してありません。 そもそも、平安宮内裏に五舎が造営されたのは、内裏創建時ではなく、 承和九年(842年)のこととされています。 平安宮内裏では、承香(しょうきょう)殿,常寧(じょうねい)殿,貞観(じょ うがん)殿,弘徽(こき)殿,登華(とうか)殿,麗景(れいけい)殿,宣耀(せ んよう)殿の七殿および、昭陽(しょうよう)舎,淑景(しげい)舎,飛香(ひ ぎょう)舎,凝華(ぎょうか)舎,襲芳(しゅうほう)舎の五舎を後宮といいま すが、基本的に、内裏創建時から存在した七殿のほうが、五舎よりも 格上とされているのです。 つまり、当時の後宮の殿舎の格は、何と言っても、弘徽殿がNO.1で、 その次が麗景殿または承香殿という順であったのです。 飛香舎が初めて皇后の御所となったのは、村上天皇の中宮安子の 時でした。安子は右大臣藤原師輔の娘で、天慶3年に成明親王(= 村上天皇)と飛香舎で婚儀を行っています。『西宮記』によれば、それ はきわめて異例のことであったようです。安子はその後、襲芳舎→昭 陽舎と移り住み、村上天皇が清涼殿に入られた時から天徳4年の内 裏火災までの10年以上を 藤壺に住んだということです。 この他、飛香舎を居所とした中宮で、忘れることのできない方に、藤原 道長の娘で一条天皇の中宮彰子がいます。彰子は、一条天皇の第一 皇子である敦康親王を 定子亡きあと 自らの手元に引き取って養育 していましたが、その敦康親王と同居していたのも、ここ藤壺でした。 『権記』長保3年(1001年)8月3日条には 今日巳剋、一御子始渡給中宮上御廬(中略)藤壺東廂有飲食事 と、一御子(=敦康親王)が中宮(=彰子)のもとに初めて渡ってきた時 の様子が記されています。 この他、飛香舎を居所とした中宮には、同じく道長の娘で後一条天皇 の中宮となった威子、そして、後冷泉の中宮の章子内親王などもいま した。 威子と章子は母娘の間柄であり、彰子→威子→章子内親王と、御堂 関白家の中宮たちによって 藤壺が世襲されていったことがうかがえ ますね。 後宮において、同じ殿舎を一門の者が世襲する例というのは、源氏物 語の中でも、この藤壺をはじめ、桐壺や弘徽殿などで確認することが できますが、それができるというのは、それだけその一門が権門であ ることの証とも言えるのでしょう。 藤壺に話を戻しますが、源氏物語が執筆されていた当時、現実の後 宮において、道長の娘彰子が藤壷を賜り 藤壷女御と称されていたこ とは、源氏物語にも少なからぬ影響を与えていたであろうと想像され ます。 と同時に、源氏物語における藤壷の重要性が その後の後宮殿舎の ランクづけに与えることになった影響もまた 少なからぬものがあった ようです。さすがは源氏物語ですね! さて、藤壷の南庭には、その名の示すとおり、みごとな藤が植えられて おり、しばしば藤花の宴が行われました。 中でも、延喜2年(902年)3月の藤花の宴の史料は、その存在を確認 できる早いものであり、『拾遺和歌集』には、皇太后宮權大夫國章の こんな歌が載っています。 延喜の御時藤壷の藤花の宴せさせ給ひけるに殿上のをのこども 歌つかうまつりけるに 藤の花宮のうちにはむらさきのくもかとのみぞあやまたれける また、「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬ る(古今169)」の歌で有名な藤原敏行は、同じく醍醐天皇が催された 藤花の宴の折に 藤花の宴せさせたまひける時よみける 藤の花かぜふかぬよは紫の雲たちさらぬところとぞ見る という歌を残しています。(『秋風集』) この他、『栄花物語』巻三十二には、 三月つごもり方に、藤壷の藤の花、えもいはずおもしろく塀に咲き かかりて、御溝水を遣水に掘りわけて流させ給へるに咲きかかり たる、いとをかし。この花の宴せさせ給ふ。 との記述もあり、まさに藤壷の名にふさわしいみごとな藤が咲き誇っ ていた様子が よくわかります。 飛香舎の庭には、藤以外にも、女郎花や菊、紅葉などが植えられて いたようで、『後撰和歌集』には、右大臣九條の 大輔が後凉殿に侍りけるに藤壷より女郎花を折りてつかはしける をりてみる袖さへぬるゝ女郎花露けき物と今や志るらむ の歌が、また、『兼輔集』(西本願寺本58)には、 故内侍のかみの住み給ひし時、藤壷にて菊の賀みかどせさせ給 ひけるに 紫のひともと菊はよろづよを武蔵野にこそ頼むべらなれ の歌がそれぞれ 載っています。 現在の京都御所でも、五舎のうち飛香舎だけは復興されていますの で、機会があれば、みなさまもご覧下さいませ。 (当サイトにUPさせていただいてもかまわない飛香舎の写真をお持 ちの方がいらっしゃいましたら、掲示板 または メールにて お声を かけて下さいね!) 源氏物語における藤壷については、後日まとめることにいたします。 |