凝華舎(梅壷)



この地図は『平安京提要』「平安宮内裏復元図」を参考にして作りました。

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凝花舎(ぎょうかしゃ)は飛香舎の北にあり、南庭の西に白梅、東には紅
梅が植えられ、また、東庭にも梅の木があったことから「梅壺」とも呼ば
れていました。

御前の梅は西は白く東は紅梅にて・・・(『枕草子』87段)


参考文献:『大内裏図考証』巻十八



身舎(もや)は東西五間,南北二間で、身舎の四面に庇(ひさし)をめぐらし、
東面には孫廂がつき、さらに周囲に簀子をめぐらしました。

南側の東西には飛香舎へと続く渡廊が南へのびており、北側には、襲芳
舎の南西につながる渡廊がありました。


『源氏物語』では、梅壺を賜っていた人物が3人描かれています。

まず一人目は弘徽殿大后で、「賢木」巻において、

后は、里がちにおはしまいて、参りたまふ時の御局には梅壷をした
れば、弘徽殿には尚侍の君住みたまふ。


とありました。桐壺帝の御代には、弘徽殿に住んでいた朱雀帝の母后も、
桐壺帝の退位後は里がちの暮らしになり、たまに参内する時の局には
梅壷を使うようにして、妹である朧月夜に弘徽殿を譲ったのでした。


次の二人目は、秋好中宮です。おそらく、朱雀帝が退位した後は、弘徽
殿大后が参内することもなくなっていたのでしょう。

「絵合」巻には、藤壺中宮の御前で物語絵合せが行われた時の様子が、
次のように描かれています。

物語絵は、こまやかになつかしさまさるめるを、梅壷の御方は、い
にしへの物語、名高くゆゑある限り、弘徽殿は、そのころ世にめづ
らしく、をかしき限りを選り描かせたまへれば、うち見る目の今めか
しきはなやかさは、いとこよなくまされり。


ここで梅壷の御方と呼ばれているのが、後の秋好中宮で、弘徽殿の女
御と呼ばれているのは、頭中将の娘(母は右大臣の四の君)でした。

この時には『竹取の翁』対『宇津保の俊蔭』や、『伊勢物語』対『正三位』
といった対決がなされたことが書かれています。

その後、帝の御前での絵合せの折に、梅壷側は源氏が所蔵していた
古代の御絵の他、朱雀院が梅壺の女御のために届けてくれた宮廷行
事の絵などを出しました。中でもきわめつけとなったのは、源氏自らが
描いた「須磨」「明石」の二巻の絵日記で、これにより、この勝負は梅壷
側の勝ちと決まったのでした。


最後の三人目は、今上の二宮(母は明石中宮)です。

「匂兵部卿」巻には、

女一の宮は、六条院南の町の東の対を、その世の御しつらひ改めず
おはしまして、朝夕に恋ひしのびきこえたまふ。二の宮も、同じ御殿
の寝殿を、時々の御休み所にしたまひて、梅壺を御曹司にしたまう
て、右の大殿の中姫君を得たてまつりたまへり。次の坊がねにて、
いとおぼえことに重々しう、人柄もすくよかになむものしたまひける。


とあり、源氏の死後、紫の上が特にかわいがっていた女一の宮が、紫の
上が住んでいた六条院南の町の東の対に住み、次の東宮候補である
二の宮も、同じく六条院南の町の寝殿を時々の御休み所にしながら、宮
中では梅壺を御曹司にして、右の大殿、つまり夕霧の中姫君(母は雲居
雁)と結婚している様子が描かれています。


さて、梅壼を賜った歴史上有名な人物としては、何と言っても藤原詮子の
名が挙げられます。ご存じ摂政太政大臣藤原兼家の娘で、17才で円融
天皇に入内し、19才で懐仁親王(後の一条天皇)を産み、25才で一条天
皇の即位に伴い皇太后となり、30才で出家して東三条院の院号を宣下
された あの詮子です。

その他、藤原定子も梅壼と関係がありました。
梅壼は、職の御曹司に住むようになってから以後の 内裏における御
座所として 定子に当てられていたようで、『枕草子』87段には、頭中将
藤原斉信が梅壼に清少納言を訪ねて来た時の様子が次のように描か
れています。

梅壼の東面の半蔀あげて、「ここに」と言へば、めでたくぞ歩み出で
給へる。櫻の直衣のいみじく花々と、裏の色つやなどえもいはず清
らなるに、葡萄染のいと濃き指貫、藤の折枝おどろおどろしく織りみ
だりて、紅の色、打目など輝くばかりぞ見ゆる。


この時の斉信の素晴らしい姿は、定子自身も他の女房たちも絶賛する
ところでしたが、清少納言の微に入り細をうがつ話を聞かされて「誰も
見つれど、いとかう、縫ひたる糸・針目までやは見とほしつる
」つま
り、「あんたみたいに細かいことまでゼ〜ンブ見逃さへんかった人は知
らんわ」と、皆に笑われたということです。

ちなみに、斉信がこの時着ていた萄染のいと濃き指貫、藤の折枝
おどろおどろしく織りみだりて
という装束は、当時の男性装束について
書かれた数少ない貴重な資料のひとつであり、風俗博物館の展示でも、
この記述を参考にして図柄を考案され、布を一から織られたというお話
を、当時、展示を担当しておられた方からお聞きしたように記憶していま
す。私の記憶が正しければ、これがその指貫だったはずです。

この他、梅壺には、兼家の孫にあたる教通の娘・藤原生子が後朱雀天
皇の女御として住んでいました。「新勅撰和歌集」には、

後朱雀院御時、祐子内親王藤壺にかはらず住み侍りけるに、月く
まなき夜、女房むかし思ひ出でてながめ侍りける程、梅壺女御まう
のぼり侍りける訪ひをよそに聞き侍りて


 天の門を雲ゐながらもよそにみて昔の跡をこふる月かな

という菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の歌が載っています
が、ここに出てくる梅壺女御というのが藤原生子のことなのです。


また、『枕草子』196段の「物語は」によれば、当時、梅壺の少将(又
は大将)という物語があったことがわかります。

物語はすみよし、うつぼの類は、殿うつり。月まつ女。交野の少将。
梅壺の少将。人め。国ゆづり。むもれ木。道心すすむる松が枝。こ
まのの物語は、ふるきかはぼりさし出でてもいにしが、をかしきなり。


ここでは梅壺の少将となっていますが、私が見た限りでは、大将とな
っている本のほうが多いようですね。いずれにしろ、どんなお話なのか、
知りたいものです。
梅壺とは関係ありませんが、こうして物語の名前をみていきますと、後
世に伝えたい! という熱心な読者の意志と幸運が重なってこそ、不朽
の名作というものは はじめて残されていくものなのかもしれませんね。


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